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絵の複製が美しいと感じるとき

久しぶりにサルバドール・ダリ、ポール・デルボーそしてルネ・マグリットなどシュルレアリストたちの絵画を見る機会があった。彼らの作品と初めて出会ったときの新鮮な衝撃はいまだ記憶の底に残っている。手元に彼らの画集、展覧会の図録などが何種類も集められ、けっこう熱心にページをくくった時期もあった。数年ぶりに彼らの絵画と対面してみたが、かって体験した新鮮な驚異に充ちた時間を追体験することはできなかった。逆に、彼らの作品に魅力を感じず、落胆だけが残ることとなってしまった。

十数年まえになるか、マルク・シャガール展に出かけたときの体験を思いだした。人気沸騰で、ゆっくり立ち止まって納得できるまで作品を見ることが難しい状況だった。歩きながら作品を流すように見ていたときに、画集で見たときのほうが作品が綺麗だと感じたのだった。「原画」を直接に見ながら、画集や図録に掲載されてある複製画のほうが綺麗だと感じた体験に驚ろかされた。「原画」は本物で「複製」は偽物という固定観念が頭にあったのだろうと思う。けれど感覚的には、「原画」の持つ絵具のマテリアル感、運筆などの軌跡がノイズとして、余計なものとして感じられていたようである。印刷された画集や図録からはそのような要素は消去されていたので、作品のもつデザイン性、趣向性など記号性が際立ち、複製画のほうが綺麗に感じられたのではないかと想像される。

今回の体験も、むかしシャガール展で体験した出来ごとと同質のものであるようだ。デジタル撮影された細密な複製画のほうが、「原画」より鮮明に、綺麗に思えてしまったのだ。逆に、「原画」には精彩が感じられなかった。

シュルレアリストたちの存在を知ったのはご多分にもれず仏文学者・渋沢龍彦であり、ドイツ文学者・種村季弘の著書からであった。それまで写実性の強い風景画、静物画や人物画などを絵画であると受けとめていた眼からは、渋沢龍彦や種村季弘たちの紹介するシュルレアリストたちの絵画には新鮮な解放感を感じると同時に、鮮やかなパラダイム転換を体験する出来事でもあった。
彼らの趣向、意匠の斬新さ、奔放さに魅了されたといってもいいであろう。

写真家・森山大道が青森の写真家・小島一郎の写真を前にして、 「こんなに現実は美しくないんだが」と呟くのをテレビのドキュメンタリー番組で見たことがある。津軽地方の風雪に朽ちた家屋を撮影した写真である。風雪に朽ち果てようとしている家屋を現実に目にすれば、けして美しいなどと感想を呟く昇華体験はない。即物的にあくまでも朽ち果てつつある家屋の姿だけが眼に写り感じるのではないだろうか。
森山大道は何を言いたかったのか?

撮影され印画紙に焼きつけられ、1枚の写真となったときに、写真家の手が加わったときに、まったく別の世界が現出する。小島一郎の写真に象徴されている現実と写真作品の放出するイメージとの間にある落差は何を示唆しているのだろうか?

また美術評論家・西岡文彦は現代における観光の特色について、イメージと現実との落差を楽しむことにある、と指摘している。観光地としての名所旧跡は映像化され、人々の中にイメージ情報として擦り込まれている。インプットされたイメージを携えて名所旧跡を巡ると、現実に名所旧跡の風景を目にして落胆だけが残る。イメージを裏切る現実があるだけだ。この落胆、幻滅体験は誰もが体験しているはずである。西岡文彦は落胆するのではなく、その落差、ギャップを楽しむことが観光旅行の醍醐味であるというのである。 西岡文彦が指摘するイメージと現実との落差は日々の生活の中で、さまざまな場面で体験することでもある。先の小島一郎の写真を前にして、森山大道が呟いた体験も、日々の生活の中での体験と同質のものではないだろうか。

シュルレアリストたちの絵画に感じた落胆も、このイメージと現実との落差の結果ではなかったかと思える。サルバドール・ダリ、ポール・デルボーそしてルネ・マグリットなどシュルレアリストたちの絵画においても、現実としての原画よりもデジタル撮影された精細な複製画のほうが綺麗に感じてしまうという、同じの構造があるのではないかと思える。

今、日本の画家たち、それも大正から昭和にかけての画家たちの絵画がむしょうに恋しく感じられている。この郷愁に似た感情を大正から昭和の時代の日本人画家たちの絵画にいだきはじめている。そして不思議にも、日本人画家たちの絵画は「原画」で見たいと思っているのだ。たぶん、絵画に手触りが欲しいのではないかと思う。視覚、聴覚中心で、平板でのっぺら坊になった情報社会の中で、人に備わったすべての感覚器官をかいして対象と感応したい。視覚、聴覚至上主義ではなくすべての感覚能力をかいして社会と感応して生きていきたいと欲している証しではないか。視覚だけでも、聴覚だけでも感応することは出来ない。

横浜美術館コレクション展「ダリとシュルレアリスムの部屋(2012.4/7~6/27)

横浜美術館コレクション展「ダリとシュルレアリスムの部屋(2012.4/7~6/27)

長谷川利行「カフェパウリスタ」1928(昭和3)年 東京国立近代美術館所蔵

長谷川利行「カフェパウリスタ」1928(昭和3)年 東京国立近代美術館所蔵

古典が新鮮!

『「江戸しぐさ」完全理解』(三五館:2006)
『図解雑学 菜根譚』(ナツメ社:2010)
『みんなが幸せになるホ・オポノポノ』(徳間書店:2008)
 
戦後は死語になり、輪後(東京オリンピック)から泡(バブル)後を経て、今は震後(3.11)~、時代 はくるくる変わってゆくが、果たしてニホン人のこころは変わったか、変わらないか、変わるべきか? 結論を言うと、根底において変わっていない、唯、忘れているだけで、思い起こす事は出来ると思う。 
『「江戸しぐさ」完全理解』の副題は-「思いやり」に、こんにちは-。
『ホ・オポノポノ』は-ハワイに伝わる癒しの秘法、神聖なる知能が導く、心の平和のための苦悩の手放し方-。

 3冊をじっくり読めば、共通点が伝わってくる。『ホ・オポノポノ』はハワイ民族の生きる知慈であり、『図解雑学 菜根譚』は17世紀中国の明の古典だが、江戸期の武士から町民・商人まで広く読まれたロングセラーズで、儒教(孔子)と佛教(釈迦・禅・達磨)と老子・荘子思想とがバランスよくブレンドされていて、「江戸しぐさ」のバックボーンにもなっている。

 なんだか道徳的で説教くさくて、退屈・窮屈に見えるが、イザ読み出すと(どの頁からでもよい)、わくわくしてくる。ハワイ・中国・日本の昔の人のふところの深さにつくづく感心する。
 但し、若い人に無理にすすめても敬遠されるのがオチだろう。それは、クラシック音楽・古楽と同じで、はじめはとっつきにくいもので、あるキッカケから俄然面白くなり、半生にわたる友・師・恋人になるようなもので、古典がにわかに新鮮になる。

吾れ唯足るを知る ……
能ある鷹は爪を隠す ……
大器晩成 ……
(『菜根譚』より)

水は最上至高の善 ……
柔弱は強剛に勝る ……
(老子『道徳経』より)

無用の用
(夢の中で)我は蝶か、蝶が我か?
(『荘子』)

 ニーチェの「ツァラトストラ」はゾロアスター教(拝火教)徒で、「これが人生か、よし、もう一度!」と永劫回帰を語り、それは、達磨(ダルマ)の七転び八起きの精神に通じる。コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」たちは、西欧文明への非適合者・失敗者と言うよりも、中国・唐の竹林の賢者に近い。ビートルズ(デビュー50周年だ!)の『イマジン』『レット・イット・ビー』は、ヨガや日本の神道に迫っている。

 前20世紀は、生と動と陽の時代だったが、21世紀は死と静と陰の時代であり、火星へ探査機を飛ばせた人類は果たして22世紀まで生き残れるか? メメント・モリである。





「ほっかほっか弁当」より

 ほんの三十分か一時間のつもりが二時間以上になり、振り切るようにして暇乞いしたのは午過ぎだった。妹さんにも挨拶しようと思ったが、妹さんの姿が見えなかった。降り立った玄関の前庭に、眼に染みるように赤い花が咲いていて、私は幅さんにその名前を訊いたりしたのだが、聞いた名前を忘れてしまったので、あれはいつ頃だったのか、季節も思い出せない。
「ぜひ、また来てください」
「では、また」と、口に出かかった言葉を私は嚥み込んだ。不意に、私は、もうこの家を訪れることはないだろうと思ったのだ。一期一会という言葉が胸に浮かんだ。幅さんはいくつ位か。私より二つか三つは上らしいが、いずれにしても、どちらも申し分のない老人である。明日のことは分らない。
 ところで、門を出て、私が車を国道の方に向けようとしてバックさせていると、「洲之内さん、明科の駅前を通るでしょう、私を乗せて行ってください」と、幅さんが言う。
「いいですよ、どうぞ」
 私は先程、幅さんが折鞄を抱えて出掛けるところだったのを思い出し、その用事でそちらの方へ行くのだろうと思ったが、幅さんは鞄を取りに戻るふうもなく、私が開いたドアーから、突っかけたサンダルのままで車に乗ってきた。
 駅までくると、幅さんは、ちょっとここで待っていてくださいと私に言い、私は小さな駅前の空地に車を停めた。待ってくれというのは、ここで何か一つ用事を済まし、そのあと、もう一つ別の用事で行くところがあるのだろうと私は思ったが、私を待たせておいて幅さんはなかなか戻ってこない。だいぶ経って、商店の並んだ通りの方から白いビニールの袋を提げた幅さんが現れ、私が開けようとする車のドアーを外から押さえて制し、窓を開けさせて、そこからその袋を私に手渡した。
「今日はせっかく来てもらったのに何もお構いできなくて……、これ、昼飯代りに食ってください」
 袋をのぞいてみると〈ほっかほっか弁当〉だった。他にビニールの袋入りの一口シュークリーム。何ともいえない気が私はした。これが土地の名物か何かだったら、私はこんな気持にはならなかったろう。感動したのだ。
「ありがとうございました」
 私は心からそう言って窓越しに頭を下げ、車を発進させた。この弁当はあだやおろそかには食えないな、と私は思った。奈良井で旧道に入って川を越え、宿場の中の湧き水の傍で私はその弁当を食った。
 どうしても書いておきたかったのはこの〈ほっかほっか弁当〉のことである。なぜだろう。なぜか分らないが、いうなればこれが私の信仰なのだ。幅さんが私に〈ほっかほっか弁当〉をくれた、こういう一瞬の中にだけ、何か、信じるに足る確かな世界がある。明科の駅前で貰った〈ほっかほっか弁当〉で、いつまでも、私は幅さんを忘れることはないだろう。(新潮社;1988年刊さらば気まぐれ美術館/;2007年刊気まぐれ美術館シリーズ所収)
「さらば気まぐれ美術館」(1988年,新潮社・刊)

「さらば気まぐれ美術館」(1988年;新潮社

明科駅(「駅は世界」より)

明科駅(「駅は世界」より)

山中貞雄の冒険-夭折の巨匠覚書 前編

山中貞雄

山中貞雄



 山中貞雄は、溝口健二、黒澤明、小津安二郎といった日本映画の巨匠たちとほぼ同時代人の映画監督だが、その名は彼らほど一般には知られていない。知名度だけではなく、今日観ることのできる作品もわずか3作と少ない。だが彼は、日本映画がサイレントからトーキーに移行する時代に活躍し、若くして“天才”・“巨匠”とよばれた。にもかかわらず、彼が多くに知られていないのは、不運にも28歳で落命し逝ってしまったためだ。

 だから彼は、後年に溝口が、黒澤が、そして親友でもあった小津が国際的な映画祭で絶賛され、日本映画が世界に栄光を標すこととなるのを知る由もない。だが、もし彼が戦中戦後を生き抜いていたら、三巨匠と比肩する、いや、むしろ彼ら以上に、世界が瞠目する映画作家になっていたのではないだろうか。

アラカン、天才を見出す!

 山中貞雄は1909(明治42)年、当時の映画の都・京都に生まれた。父親は京扇子の職人だったという。“カツキチ”(活動写真気狂い)の幼少期を送り、旧制京都市立第一商業学校で1年先輩のマキノ雅博(後に雅弘)と出会う。そのツテで、卒業後マキノ御室撮影所へ入社した。「日本映画の父」と言われる牧野省三が興した伝説的映画製作会社だ。

"マキノ雅弘"

マキノ雅弘(正博)

 マキノ雅弘(当時は正博)はその省三の倅で、プロデューサー・監督・脚本家として戦後の日本映画黄金期を築き、プログラムピクチャーの名手と呼ばれた。
 生涯261本の映画を監督したマキノには、映画づくりだけでなく、人の才を見出す力があったと思う。『次郎長三国志』や『日本侠客伝』などの傑作シリーズを監督・プロデュースする一方で、森繁久弥、高倉健、藤純子(現・冨司純子)、梶芽衣子らを、銀幕を代表するスター俳優に育て上げた。

 山中貞雄もまた、マキノ雅弘によって見出され、育てられた一人かも知れない。マキノは一旦は山中を父の撮影所に入社させたものの、長くは置かず、当時独立プロで一家を成そうとしていたアラカンこと嵐寛寿郎に預ける。マキノ御室撮影所で叩き上げるより、その方が早く山中の才能を発揮できる、と考えたようだ。

鞍馬天狗に分する嵐寛寿郎

嵐寛寿郎(鞍馬天狗)

 故竹中労が著した『聞書アラカン一代・鞍馬天狗のおじさんは』によれば、アラカンと山中の出会いは次のようであったという。

 「最初この男に会うたとき、マキノ正博監督の推薦や言うけど、才能あんのかいなと思うた。茫洋としとるんだ。スローモーションですねん。不精ひげを生やしてな、ドテラ着て会社にくる。タバコの空缶、チェリーやったかいな、ドテラ着て帯にくくりつけとる。それに灰たたきますねん、ポンポンと。・・・・コジキやでほんまに。シラミ湧いとるやろ、何とかしてやれと、洋服を買うてやったら、たちまち質に入れて、ドテラをまた着てきよる、往生したんダ。ところが、シナリオを見てたまげた。二度びっくりや、これ天才やないか・・・」

 天下のアラカンがお墨付きを与えた山中の才は間違っていなかった。早速にアラカンのご指名で撮った監督デビュー作『磯の源太 抱寝の長脇差(いそのげんた だきねのながどす)』(1932年;長谷川伸・作、嵐寛寿郎プロダクション・製作、新興キネマ・配給;サイレント)は、「剣戟映画」とよばれた当時のサイレント時代劇映画のスタイルを覆すような斬新な映像が話題となって『キネマ旬報』誌で絶賛され、いきなりこの年のベストテンに選ばれた。山中貞雄22歳の時だ。

トーキー時代は軍靴の音とともに

 時は世界的に映画がサイレントからトーキーへと移行していく時代。日本でも1931(昭和6)年には、初の本格的なトーキー作品『マダムと女房』(五所平之助・監督)が公開された。だが、無声映画に活動弁士が語りを入れ、楽隊が生演奏する独特のスタイルには根強い支持があり、また、トーキーには製作サイド・興行サイドともに多大な設備投資が必要だったことから、その転換には時間がかかった。山中貞雄の作品も、ほぼ半分がサイレントである。その中で『鼠小僧次郎吉』(1933年;日活京都)は日本のサイレント映画の最高傑作と伝わっているが、フィルム・プリントは残念ながら現存していない。

 とは言え、新しいテクノロジーの登場と革新は経済効果追求と相俟って、遠からず旧を陳腐化して駆逐するのが歴史的必然でもある。日本映画も1935年までにはほぼ完全にトーキーへと移行していく。大手による映画製作会社の統合・再編が進み、日活多摩川や松竹大船など、大規模な撮影所が造られたのもこの時期で、トーキー時代がもたらした所産だった。映画の新時代に“活動屋”たちの意気も盛んだったろう。

 だが、時代のより大きな回転軸も、それと歩調を合わすかのように、この時動き始めていた。すなわち、やがては第二次大戦における亡国的敗戦へと結末する日中15年戦争の始まりである。1931(昭和6)年の満州事変を契機として中華民国との間に戦端を開いた大日本帝国は、この頃、東アジア大陸への派兵を拡大しつつあった。日本映画のトーキー時代は、まさに軍靴の音とともに始まったのだ。

大衆小説のヒーロー・丹下左膳

 冒頭記したように、サイレントはもちろんトーキーでも、山中貞雄作品でプリントフィルムが現存しているものは極めて少ない。フィルムがほぼ現存し、現代でも観ることのできるのは『丹下左膳餘話 百萬両の壷』(1935年;日活京都)と、それに続く『河内山宗俊』(1936年;太秦発聲映畫、日活)、そして遺作となった『人情紙風船』(1937年;PCL・東宝)のみ。いずれもトーキー作品で、現在はDVDも出ている。

 その中で、まず筆頭に観るべきは『丹下左膳餘話 百萬両の壷』だろう。画質や音質は別として、これが現代から70年以上前に、しかも、若冠25歳の若者によって撮られた映画とは思えない素晴らしいエンターテイメント映画に作り込まれている。この一作だけでも映画作家・山中の凄さは納得できると思う。
 一曲の浪曲か講談のごとき小気味よいエンターテイメントな構成、軽妙なユーモアと斬新な映像表現。その巧みさには、彼が当時なぜ“若き巨匠”と敬され、今もって“天才”と唱われるのかが理解できる。

 実はこの映画、公開を前にしてお蔵入りにもなりかねない悶着があった。試写を観た原作者サイドから「これは丹下左膳ではない」と製作した日活に強い抗議があり、日活社内でも元社長・横田永之助(当時相談役に退いていたが、依然として社内外に大きな力を持っていた)が「即刻、山中をクビにしろ!」と激怒、それに対して撮影所や興行部門など現場はそれを諒とせず揉めたのだった。

 「丹下左膳」は林不忘(はやしふぼう)が1927(昭和2)年、東京日日新聞に連載した時代小説『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』(後に『魔像・新大岡政談』に改題)の中で、ダークヒーロー的な脇役として登場する隻眼隻腕の剣客。暗い過去を背負った異形のニヒリストとして造形されたキャラクターだった。ところが、この新聞小説が映画化(サイレント)されるとそのアクの強いキャラクターが人気を得、以後、林不忘も左膳を主役とするシリーズ小説を連作するようになる。

 作家・林不忘は本名・長谷川海太郎。35歳の若さで世を去るまでに、谷譲次(たにじょうじ)、牧逸馬(まきいつま)と3つのペンネームを使い分け、時代物から冒険ノンフィクション、実録ミステリーなど多岐のジャンルで健筆を奮い、人気の高かった昭和初期の大衆小説作家である。(「丹下左膳」シリーズを含めた林不忘の時代小説は、現在「青空文庫」からテキスト・ダウンロードし読むことができる。谷譲次、。牧逸馬も同様。)

時代劇の父・伊藤大輔

伊藤大輔監督

映画監督 伊藤大輔

 原作では一登場人物でしかなかった丹下左膳を、一躍大衆的ヒーローにした映画『新版大岡政談』は、マキノプロ、東亜キネマ、日活の3社が競作したが、もっともヒットし観客の支持を集めたのは、大河内傅次郎を主役の大岡奉行と左膳の二役に据えた日活京都のそれだった。監督のメガホンを執ったのは、後に「時代劇の父」とよばれる伊藤大輔である。それまで「チャンバラ活動写真」とよばれていた剣豪物や侠客物の「剣戟映画」に「時代劇」というネーミングを与えたのも伊藤大輔だと言われている。

 伊藤は日活撮影所の大部屋俳優に過ぎなかった大河内傅次郎を早くから起用し、その激しい殺陣とカットバックなどによるスピーディーな場面転換、そして、移動撮影による大胆なカメラワークが斬新で注目を集めていた。大河内主演の『忠次旅日記』(1927年)や『血煙高田の馬場』など、空前の大ヒットを記録する傑作によってサイレント末期のヒット・メーカーでもあった。その伊藤大輔がトーキー第1作としてメガホンをとったのが、日活で三部作として企画された丹下左膳シリーズだった。

"大河内傳次郎肖像"

大河内傳次郎

 トーキー『丹下左膳三部作』の企画は、先に記したようにサイレント映画の『新版大岡政談』で、異形の剣客・丹下左膳というキャラクターがはじめて映像化され、脇役・敵役にもかかわらず人気が高まったことが背景にある。そこで林不忘が左膳を主役に据えたシリーズ小説を新たに書き、これを原作に伊藤大輔が大河内主演で撮ることになったのだった。

 伊藤大輔が描く「丹下左膳」は原作に忠実、というよりむしろ、原作イメージをもっとブラッシュ・アップした、ニヒルで凄みを帯びた、ある面ダークヒーロー的な孤高の剣客である。そうしたキャラクターは、原作における左膳がなぜ隻眼隻腕となったかという経緯に因するものではあるが、そもそも伊藤が「時代劇映画」で専ら描いたもの、すなわち彼にとっての「時代劇」と深く関係しているとも思われる。

 伊藤の「時代劇」の主人公は、封建的価値観の世界で運命に翻弄されながら、それでも「武士の一分」を貫こうとする剣客、「義理」を通すために戦う侠客が多い。彼にとって「時代劇」とは、その時代における特殊な制度・環境・状況と宿命的に戦って生きた人間を描くもので、たった今の時代を生きている人たちと通じる視点や価値観が仮託されるようなことは、まずなかったようだ。

 そういう伊藤の作風は、彼が士族の家に生まれ「武士道」や「武士の世界」にコンプレックスを抱いていたからだ、との評もある。彼の当時のフィルムは完全なものはほとんど残っていないので、彼の時代劇のかたちは確かめようもないが、指摘されるような作風であることは、戦後に中村錦之助(萬屋錦之助)主演で東映で監督した『反逆児』(1961年)からもうなずける。彼が昭和初期のこの当時、警察・軍部からマークされるほどの社会主義者でもあったのも、そうした士族の出自や生い立ちにおける武士道的価値観への屈折した思念と無縁でなかったのでは・・・と思う。

 いずれにせよ、かくしてトーキーの『丹下左膳三部作』はスタートした。それはまさに、伊藤大輔が確立し、後の標準となるような正統的な「時代劇」であり、サイレントから同時音声のトーキーになったことによって迫力とリアリティを増した日本独自の「剣戟映画」だったであろうことは容易に想像できる。そして、期待通り映画はヒットした。
 だが伊藤は、第二部まで撮り終えたところで1934(昭和9)年、永田雅一、溝口健二、山田五十鈴らと第一映画社を設立、日活を退社してしまう。当時は所属する会社や撮影所を越えて映画製作することはできなかったから、その結果、三部作の完結編となる『丹下左膳 尺取横町之巻』が浮いてしまった。そこで伊藤大輔監督の“代打“として指名されたのが、この時期日活京都撮影所に属し、“若き巨匠”と評判の高かった山中貞雄だったのだ。

悩ましい傑作

 ところが山中が撮った「丹下左膳」は、林不忘の原作小説のはもちろん、伊藤がスクリーンに視覚化してきた丹下左膳の世界とそのキャラクターをまったく変えてしまった。

 隻眼隻腕の異形は同じだが、ニヒルで孤高の剣客は、矢場の女将・櫛巻きお藤のヒモで、子ども好きのお人好し、暢気でお茶目、剣は強いがお藤には滅法弱い浪人者に造形され、そんなキャラクターを、既に伊藤映画の剣戟スターとして圧倒的人気を獲得し、近寄りがたい剣豪イメージが定着していた大河内傳次郎が演じるのだ。
 さらに、四代目沢村国太郎(長門裕之・津川雅彦兄弟の父)演じる、原作では二枚目のエリート剣士・柳生源八郎さえ、婿養子で嫉妬深い妻の尻に敷かれている二枚目半にされ、当時「極楽コンビ」の名で知られた喜劇俳優・高勢実乗と鳥羽陽之助の二人がコミカルに絡む・・・、といった具合で、まるでチャンバラ・ホームドラマ。伊藤大輔が監督した前二作に対する恣意的なパロディとしか思えない作品で、原作者及び日活経営陣にはたいへんな顰蹙を買うことになった。

 だがそれは、「武士道とか武士の世界にコンプレックスを抱いていた伊藤に対して、庶民世界を時代劇に導入し展開」(千葉伸夫『評伝山中貞雄』)しようとしていた“若き巨匠”・山中貞雄ならではの会心の作と言えた。それは、伊藤大輔が描いたような、武士道や任侠道の桎梏を生きる孤高の剣豪的ヒーロー譚とは異なり、映画館に集まる多くの観客と同じ庶民の目線に立った新たな時代劇=ホームドラマとしての時代劇だった。しかし、トーキー新時代のエンターテイメント映画として質も完成度も高く、観る者が観れば世代・性別を超えて親しめる傑作で、公開すればヒットは間違いないと予測されたため、日活内部では、この傑作映画をどうするかが悩ましい問題となった。
 結局、社内外を円く収め、この傑作を世に出す手だてとして、伊藤が第二部まで監督したシリーズとは別物の作品として公開することに決着し、タイトルも『丹下左膳餘話 百萬両の壷』となったのだった。

 この経緯は、当時の日活に君臨した横田ら経営役員には、映画作品への芸術的評価はもちろん、興行マーケティングの観点からの眼力を備えている人物がいなかったということでもある。というのも、この問題作『丹下左膳餘話 百萬両の壷』は、いざ公開されると、批評家・観客の双方から絶賛され、高い支持を受けたのだった。その結果、山中のクビも沙汰止みとなる。

 一方これに対して伊藤大輔は、以降の監督作品に対して「時代遅れ」、「形式主義」、「アナクロニズム」といった批判を受けることが多くなっていく。
 そこには、不幸にして自身がサイレント時代に確立した「時代劇」の表現でトーキーへの転換を上手く図れなかったことや、「傾向映画」とよばれた、社会主義者としての思想性が投影された作品に対する内務省の検閲や特高警察などから厳しい抑圧のあったことも影響していると思われるが、それはまた別の機会の話題としよう。

新しい時代劇映画を切り拓こう

 それにつけても、この「悩ましい傑作」問題がが社内外の関係者にフリクションを起こすことは、山中自身ハナから承知の上で、敢えて仕掛けた冒険--「新しい時代劇を切り拓く」という、野心満々の映画冒険だったに違いないと思うのだ。

 と言うのも、この頃の山中は、専ら「時代劇」映画が撮られていた京都を拠点とする新進気鋭の映画監督、脚本家たちと語らい、所属会社の枠を超えて「新しい時代劇映画を切り拓こう」というシナリオ集団「鳴滝組」を結成し活動していた。メンバーは山中の他に、稲垣浩、滝沢英輔、八尋不二、三村伸太郎、藤井滋司、鈴木桃作、そして山中の助監督・萩原遼の8人。いずれも、後に日本映画史に名を記す顔ぶれである。

 彼ら鳴滝組は「梶原金八」の共同ペンネームで22作品を発表し、いずれも時代劇映画の革新を促す傑作として、批評家・観客の双方から高い支持を受けた。当時松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎(後の松竹社長)は、「梶原金八」が8人の集団ペンネームであることを知らず、製作部に「梶原金八を引き抜け!」と命じたというエピソードはよく知られているいる。しかも城戸は、8人の中に自社の藤井がいることも後になって知ったという。

 山中たち鳴滝組がめざした「新しい時代劇映画」とは、言うまでもなく伊藤大輔が確立した時代劇映画への反旗であり、革新だった。8人はそういう野心を抱いて旅館の一室に集まり、精力的に執筆に取り組んでいた、そういう折りに山中に「丹下左膳を撮れ」との命が所属する日活から下った。それも、伊藤大輔のシリーズの“代理登板”としてだ。これぞ千載一遇の、まさに「新しい時代劇映画を切り拓」くための願ってもない機会と、彼らは思ったはずだ。

 山中代打の『丹下左膳 尺取横町の巻』、すなわち『丹下左膳餘話 百萬両の壷』の脚本は「梶原金八」ではない。この時代、所属会社を超えた若手集団のシナリオを受け入れるような懐の深さは、日活に限らず日本映画界にはない。だから、製作時には「脚色・三村伸太郎、潤色・三神三太郎、構成・山中貞雄」となっていて、DVDなど現在のクレジットもこれに準じているが、公開時の最終的なクレジットは「構成・監督 山中貞雄」とだけされた。
 なお、このうちの「三神三太郎」は明らかに架空の人物である。それが、山中、三村と助監督・萩原遼以外の日活所属ではない鳴滝組メンバーであろうことは想像に難くない。

 ともあれ、『丹下左膳餘話 百萬両の壷』は山中が、そして鳴滝組の面々が目論んだように「新しい時代劇映画」として世の人々に歓迎された。
 原作を換骨奪胎した山中の丹下左膳映画は、古典落語の世界のような江戸情緒たっぷりの人情喜劇でありながら、ハリウッドのミュージカル映画のようなモダンな明るさとテンポの良さが光る。70年以上前の、サイレントからトーキーにようやく移行したばかりの時代の映画とは思えない、生き生きしたリズムが感じられるのである。

ご存知、大河内節も活かした山中の<冒険>

"「丹下左膳余話 百万両の壷」スチール"

『丹下左膳餘話 百萬兩の壷』スチール。左膳(大河内傳次郎)と櫛巻お藤(喜代三)

 いったい、これはなぜなのか?

 山中貞雄はサイレント末期に映画界に入り、生涯の監督作品のほぼ半数は無声映画である。だが、おそらく彼は、最初からトーキーの、映像と音声を同期させる新しい時代の映画はどう表現すべきか、そのためには何が必要かをサイレントの時代から既に十分研究しつくしていて、しかもそれをどう構成し演出するかという手法やイメージを、自身の感性の抽出しにいっぱい詰め込んでいたのだろうと思われる。
 その抽出しを、あたかもオモチャ箱をひっくり返すようにして、ここぞとばかり「トーキー・ワンダーランド」を広げて見せた一作が、この『丹下左膳餘話 百萬両の壷』であったのだと思う。

 原作者・林不忘には許し難いことだったかも知れないが、軽快でコミカルな「丹下左膳」は、反伊藤大輔の時代劇映画としてだけではなく、これぞ日本のトーキーだ!という「新しい時代劇映画」の冒険的提示でもあったのだろう。

 トーキーではスクリーン上の登場人物に演じている俳優の実声が乗ることによって、観客は、「活動写真」とも言われたサイレントよりずっと実在感のあるドラマを観ることになる。そういうドラマでは、スクリーン上の人物に自分と同じ生身の人間性を感じられる方が感情移入もされやすく、リアリティも増してくる。
 ニヒルで容姿怪異な孤高の剣客よりも、隻眼隻腕の不具でも明るく、剣は滅法強いがシャイでお人好し、お茶目な一面もあるというキャラクターの方が、ずっと人間臭いリアリティがあり、老若男女にも親しまれる魅力的ヒーローになるはずだ。山中や三村たち鳴滝組の面々は、たぶんそう考えたであろうし、事実そういう左膳がスクリーンに登場すると多くから支持され、後に板東妻三郎が、大友柳太朗が、丹波哲郎が、そして近年では豊川悦司が演じた「丹下左膳」も、このとき山中貞雄が創り出したキャラクターを踏襲し、いずれの映画もヒットしている。

 「シェイ(姓)は丹下、名はシャジェン(左膳)」――後々まで物真似芸人たちによって伝えられた大河内傳次郎独特のセリフ回し。これもまた然りだ。

 戦前・戦後を通じて日本映画の大スターで、今も京都嵐山の観光名所となっている回遊式日本庭園の造営者としても名を残している大河内傳次郎は、同時にもっともよく知られた丹下左膳役者だった。伊藤大輔、山中貞雄の両監督作品以外にも、実に16本に及ぶ丹下左膳映画で主演している。
 ところが、現在の福岡県豊前市に医者の子として生まれ育った大河内には九州訛りがあって、役者になってからも、なかなか抜けることがなかった。サイレント時代には何ら差し支えなかったが、トーキーとなると発語の地方訛りは、主役級の俳優としてハンディとなる。サイレント時代から抜擢して大河内を起用してきたのは伊藤大輔だが、トーキーになったときの大河内のセリフに回しについては「アウ、アウですからね・・・、困った」と、後に回想しているほどだ。

 だが山中は、左膳という人物にコミカルで親しみやすい要素を入れて演じさせることで、訛りごと俳優・大河内傳次郎の個性として活かすとともに、伊藤によって開かれた凄みのある剣戟役者にのみ止まらない芝居の幅を大河内から引き出して、名優・大スターへの道を開いた。

 それにしても、やはり大河内の殺陣は素晴らしい。伊藤大輔が専ら起用したワケがよく分かる。残念なことに、本格的な立ち回りシーンは戦後のGHQによる検閲でカットされてしまったため、現存するフィルムではその一部と道場破りのシーンでしか観ることはできないが、これほどしなやかで大きな剣さばきのできる役者は滅多にはいないと思う。彼は学生時代剣道部にいて、実際の試合でも強かったらしい。

 ヒロインの櫛巻きお藤には、鹿児島一の売れっ子芸者から新橋芸者へ、そしてさらに歌手にと転じた喜代三を起用。彼女の歌の上手さ、声の良さが、江戸情緒たっぷりの画面を引き立てている。

時代劇映画のアヴァンギャルド

 加えて、多くのBGMが場面ごとに用いられ楽劇の趣きさえ感じられるのも、この映画『丹下左膳餘話 百萬両の壷』が日本映画史に特筆されるべき傑作である所以だ。
 その曲目には、童歌の『通りゃんせ』もあればムソルグスキーの交響詩『禿げ山の一夜』などクラシックも・・・というバラエティで、これらも山中ならではのトーキー・クリエイティブと言える。

 往年のモノクロフィルムだから、現代の映画と比べればフィルムのトーンに劣性は否めないが、山中独特のローアングルの映像美に、役者の個性を含めたこれらサウンドの巧みな使い方が加わり、“若き巨匠”の鋭いセンスとトーキーによる新しい時代劇映画を創ろうという意気込みの強さがジンジン伝わってくる。その意味で『丹下左膳餘話 百萬両の壷』は、まさに、日本の時代劇映画のアバンギャルドであり、トーキー新時代の前線を切り開いた<冒険>の映画と評したい。

 当時映画館でこの作品を観た人びとが羨ましい。見どころ聞きどころ満載した山中の<冒険>はやたらに面白く、たぶん、館内は大いに盛り上がったことだろう。得意満面の山中の顔が思い浮かぶ。
2009(平成21)年11月、キネマ旬報が創刊90周年を記念して発表した「日本映画・外国映画オールタイム・ベスト・テン」には、日本映画部門第7位に『丹下左膳餘話 百萬両の壺』がランキングされている。普及の名画でもあるのだ。(つづく

5月(May)の迷想あらかると

Ⅰ.宮本常一を読み直そう。

知る人ぞ知る宮本は日本全国をつぶさに歩いて見て調べて記録に遺した稀有の民俗学徒。1907~1981、山口県周防大島生れ。カバンにカメラと万葉集風土記を必ず携帯し、生涯10万点の写真を撮った。
「宮本常一が撮った昭和の情景(上・下)」=毎日新聞社
「宮本常一と歩いた昭和の日本(全25巻)」=農文協
「別冊太陽・宮本常一」=平凡社

先日、江戸東京博物館で「都市と塔(タワー)」展を見、別の階で、幕末・明治・大正・昭和の暮らしの常設展も見たが、じつに丹念にコレクション、別世界へタイムスリップしたようだ。帰宅後、さっそく図書館へ寄り、上記の本と「モースの見た日本」(小学館)、「日本民家紀行」(新潮社トンボの本)、「信州の西洋館」(信濃毎日新聞社)を借りた。いずれもオールカラーで見応え十分、ため息が出る。ついでに画家・オカモトタローも文化人類学徒で、すぐれた写真家だった。「忘れられた日本・沖縄」「芸術風土記」(新潮社)。去年はタローと松本清張が生誕100年。

Ⅱ.ことしは檀一雄が100年。

ビートルズがデビュー50年。大指揮者ブルーノ・ワルターが没後50年になる。

ジョン・レノンが32年目で「ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか」(祥伝社新書)を読んだ。また、没後30年目の西脇順三郎(1894~1982、新潟小千谷生れ)の詩集を読み直した。はじめて読んだのが大学生の時だから、もう50年になるが、少しも古びてないのに驚く。(角川文庫・もう表紙はボロボロ)

Ⅲ.「哲学」という言葉は明治の西周(にしあまね)がつくった。

「宗教」「自然」も明治になってからで新語である。3.11以降、日本人はどう変わったか?あるいは、変わらないか?
ここ2、3年、日本人とは何か、忘れられた日本人、または、新・代表的日本人を論じた書がかなり出てきている。 山本七平、宮本常一、勢古浩爾、佐野眞一他。既成の思想や価値観・体制が崩壊・失墜する時、新しい思考のワク組が問われ、求められるが〝哲学〟の時代が来ていると思う。

人はナゼ自殺するのか? ナゼ、テロリストになるのか? 絆とか助け合い、家族は大事だが、ナゼ結婚せず、子を作らない人が増えているのか? でも男と女の世の中、恋は神代の昔からだが、近ごろの若者はマザコンでニート?政治家という人種も奇怪? オザワ君ご苦労さん、野田ドジョウ首相は仲々ぬらぬらと土性骨、やるう……。野球、サッカー、体操、水泳、フィギュアスケート大国? ニッポン、ゴーゴー。スポーツマンは結果がスグ出ていいネ。

「超訳ニーチェ」が100万部以上売れたとか。ボクも「座右のニーチェ-突破力がつく本」(光文社新書)を読んだ。また「哲学がわかる事典」(日本実業出版社)なる書を中古書店で見つけたが、著者は鷲田小彌太(1942~札幌生れ)で、210章あり(1章800ページ内)、現代のあらゆる問題に処方箋・指針・ヒント満載。あゝ〝哲学する〟ってこんなに楽しいものか、まさに「Philosophy(知を愛する)」の書。メエー、メエー、迷える子羊でもよか、幼な児の如くならずば天国に行けず、すれっからしの世のオトナたちよ、狭き門より入れ、喝!

「宇野マサシ下町風景展 -スカイツリーの見える町-」

 

「本日休館」(2012年春号)第21号をお届けします。年4回更新。6年目に突入です。

平成24年3月25日(日)、トラジロー・ナカノ氏と浅草・松屋デパート前にて待ち合わせ、吾妻橋の画廊「ギャラリー ア ビアント」にて開催されている「宇野マサシ下町風景展 -スカイツリーの見える町-」に行ってきました。

二十数点の作品が飾られていました。
いつものように「一番欲しい絵」はどれかを探すことにしました。
案内状にも印刷されていた「十間橋から」(油彩・40号)というタイトルの絵が一番欲しいものでした。
絵を評することなど到底できないのですが、「家並み」を描いた作品が多いように以前から感じています。

この絵にも北十間川の両側にビル群、倉庫のような建物が描かれています。川の水面には「逆さツリー」が、川に沿って赤い花(さつき?)も描かれていますが、人の気配がありません。それによって、絵のなかに独得の雰囲気が感じられます。

家並みが描かれた作品には共通して感じられるものです。なんとなく人が家を歩いているような、人がそこに居る作品でも同じ感覚を受けます。人の気配がない家並みは「廃屋」の連なりのように感じられます。また、置き去りにされた家並みが、ただそこに佇んでいるように感じられる作品もあります。

それは何なのか? それは何故なのか?
これからも宇野作品を追いかけながら、その問いの返答を探していきます。

次回は8月末の更新予定です。ではそれまでごきげんよう。

<「男は一代」補遺 金子徳衛 >より

・・・・・・
パリにいる間、徳衛さんの頭には、寝ても覚めてもド・スタールがあった。モンマルトルで買ったという小冊子のド・スタールの画集を、徳衛さんはいまも大切にしているが、アトリエの書棚からその画集を出してきて、その中の瓶の絵を私に見せながら、「この絵なんかが不思議に見えてねえ、抽象ではなく具象なんだけど、この美しさ抽象の美しさでしょう、瓶は瓶なんだけど、そういう認識を超えたこの瓶の美しさ、これに惹かれてねえ、どうすればこういうふうに物が見えるんだろうと……」と言いかけて、そこで立って行って、奥の方から一枚のカンバスを提げてくると、「その頃、リベリアという安ホテルにいましてね、そこの部屋のテーブルの上のカップとか水差しとか椅子とかでこれをやってみたんだけど、どうですか」と言う。

私は、アトリエへ入ってきたときから眼についていた壁に掛った毬栗の絵を、徳衛さんの言葉を頭に置いて更めて見て、「なるほどそうか」と思った。この栗に限ったことはないが、私はいつも徳衛さんの絵を見ながら、徳衛さんがド・スタールを見て感じるのと同じことを感じていたのだ。つまり、いつもこの美しさは何だろうと思うのだが、物が物を超えてその物以上の物になるとき、物は真に美しいのかもしれない。それが抽象ということかもしれない。
さらば気まぐれ美術館1988年,新潮社 所収)

インターネットがない時代に人はどうつながったか?

「ペン・フレンド」の記憶と手紙の力

半世紀近く前になるだろうか、中高生や20歳前後の世代に「ペン・フレンド(あるいは、ペンパル)」というのが流行ったことがある。雑誌などの専用コーナーに自己紹介を投稿し、希望条件や趣味などが合致した見ず知らずの者同士が、手紙を交わし合うことによって友だちになるというもので、「文通仲間」とも言った。
文通希望の多くは、趣味や嗜好、あるいは将来の希望や目的を同じくする相手というよりも、異性のペン・フレンドを求めるものだったはずで、今風の見方をすれば、手紙を手段とした素朴な「出会い系」のようなものとも言える。動機が不純である分長続きしないのが大半だったが、稀に、ペン・フレンドから結婚へと至ったという人もいるから、捨てたものではない。

当時見ず知らずの者が出会う場は少なかったし、知り合って交際するにも、お互いが目と鼻の先にでも住んでいない限り、声を聞くのも胸の内を語るのも大変だった。電話は全戸に普及していなかったし、電話代も高かった。まして、遠く離れている者同士が頻繁に交信する手段は、手紙以外になかったのだ。

一人一人が電話を持ち歩き、インターネットによって全世界、どれだけ離れた場所にいる人とも瞬時につながる現代では昔日の感がするが、手紙がコミュニケーションの中心手段だった時代は、ほんの数十年前まで100年以上にわたって続いていた。
メールやツイッターが当たり前になっているいま、手紙という伝達と自己表現の手段は、確実に衰退の一途で、そのうち「書簡」という日本語も国語辞典から消えてしまうのかも知れない。
だが、急き立てられてことばを厳選しないメールや、舌足らずなツィートのシャワーばかりを浴びていると、ことばへのこだわりや感性が鈍化していくような強迫観念に見舞われることがある。
そんなとき、ことばを伝える手段としての手紙の豊かさと、人とつながる書簡という形式の深さを改めて思い起こす。

そんな手紙の力、書簡のやりとりが、見ず知らずの人々をつなぎ、それぞれの人生を20年にわたって豊かにしたという実話を基に1980年代後半、インターネットがまだ揺籃期にあった頃に製作された日本未公開映画を今回取り上げたい。

イントロは古書注文の手紙から

1949年10月5日のアメリカ・ニューヨーク。東95丁目14番地のアパートメントに住む駆け出しの女性脚本家、へレーン・ハンフは、大好きなイギリス文学の古書を探して市街の本屋を訪ねるものの、目当ての書籍はいずれも高額な稀覯本扱いで手が出ない。「もっと安いのはないの?」と店員に問うと、学生向け専門の書店へ行ってみてはどうかと返される。カチンと来た彼女は、つい店内に響くほどの大声で「ここには、イギリス文学を読む人はいないのね!」と毒舌を吐いて、他の客の冷たい視線を浴びてしまう。

いたたまれず店を出た彼女、ふと、通りのニューススタンドで売られていた『サタデー・レビュー』紙に目を留め、取り上げる。彼女が惹きつけられたのは紙面のニュース記事ではなく、広告欄だった。そこにはイギリス・ロンドンの、絶版本を専門に扱う古書店が広告が掲載されていたのだ。

大急ぎでアパートメントにとって返した彼女は、タイプライターに向い、一通の手紙を打ち上げ郵送する。宛先はイギリス・ロンドン・西中央2、チャーリング・クロス街84番地マークス社。広告をだしていた古書店である。

<貴社では絶版本を専門に扱っておいでの由、『サタデー・レビュー』紙上の広告で拝見いたしました。私は“古書”というとすぐ高いものと考えてしまうものですから、「古書専門店」という名前に少々おじけづいております。私は貧乏作家で、古本好きなのですが、ほしい書物を当地で求めようといたしますと、非常に高価な稀覯本か、あるいは学生さんたちの書き込みのある、バーンズ・アンド・ノーブル社版の手あかにまみれた古本しか手に入らないのです。

今すぐにほしい書籍のリストを同封いたします。このリストにのっておりますもののうち、どの本でも結構ですから、よごれていない古書の在庫がございましたら、お送りくださいませんでしょうか。ただし、一冊につき五ドルを越えないものにしてください。この手紙をもって注文書に代えさせていただきます。>

1986年にハリウッドで製作された映画『84,Charing Cross Road(チャリング・クロス街84番地』は、ニューヨークからロンドンへの英文学の古書を求める手紙から始まる。

現代ならオーダー・メールかウェブサイトの注文フォームに入力して、送信ボタンクリック・・・というところだが、どうだろう。この手紙は問い合わせと注文書を兼ねていながら、書き手の心情と熱意をよく伝えていると思うのだが・・・。

タイトルの「Charing Cross Road=チャーリング・クロス街(または、チャリング・クロス街)」は、知る人ぞ知るロンドンの古書店街。ちょうど神田神保町のような場所である。

本をめぐる書簡文通20年の物語

やがて、ヘレーンのもとには、マークス社・FPD氏こと主任バイヤーのフランク・ドエルによる、いかにも実直そうな返信が届く。そして、そこに記されていた通り数日後には、彼女がリストアップしたうちの2冊-『ハズリット随想録』とスチーブンソンが収められた『懇談録』が送られてくる。

映画『84,Charing Cross Road』の1場面

映画『84,Charing Cross Road』より、アン・ヴァンクロフト

いずれの書籍も、申し分のないきれいな古本だった。とりわけ『懇談録』の立派な装丁とクリーム色の質の良い頁紙にヘレーンは小躍りするものの、同封の請求書には1ポンド17シリング6ペンスの金額が。はて、・・・何ドルなのか?

ドル換算が出来ない彼女は、上階に住むキャサリンの恋人・ブライアンがイギリス人であることを思い出し、内心おそるおそる換算を頼む。数学の得意なブライアンは、即座に5ドル30セントと換算してくれるが、予想外の格安さに、彼女は計算間違いではないかと半信半疑しながら、ますますご機嫌になって、早速、6ドルと謝礼の手紙をマークス社に送る。

これを端緒にヘレーンは、かねがね読みたいと思っていたイギリスの名著について、次々とマークス社に注文書簡を送り、また、時には送られてきた書籍の不出来に対して持ち前の毒舌とユーモア溢れる手紙を書く。これに対してフランク・ドエルは、彼女のために本を探し、その都度、誠意溢れた返信を送り、彼女の意を汲んだ書籍を届ける・・・。

こうして、古書の受発注を媒介にした二人の手紙のやり取りは、以後20年にわたって続く。その間、ヘレーンとフランクは海を隔てたまま一度として会うことはないのだが、互いに敬愛と信頼を深め、心の交流へと発展していく。やがてそれは、二人の周囲の人々にも及んでいき・・・と。
『チャーリング・クロス街84番地』は、まさに海を隔てた男女の、書物をめぐる20年の書簡文通を描いた、知的で味わい深い大人の映画で、読書人には特におすすめだ。

書物を愛し、書を読むことこそ人生の愉しみという、そんな佳き人々が共感することばとユーモア、そして、俳優たちの想像力豊かな人物造形に加え、同時代のニューヨークとロンドンとの、二つの舞台の異なる空気と表情をディティールまでさりげなく描き分けて、しかも同時進行で観せる見事な映像演出、それを表現するカメラワークや美術、照明の質の高さ。文句のつけどころがない好い映画なのだ。

日本では劇場未公開だった

この映画、日本では劇場未公開だった。つまり、日本の外国映画配給会社はどこも買い付けなかったということだ。製作当時の日本はバブル景気の真っ只中だったことを思い起こせば、頷けないこともないが、往時の日本の映画興行屋たちの見識の低さとマーケティング力の無さこそ、その要因だろうと思う。

というのは、この映画は実話に基づいていて、原作は1970年、へレーン・ハンフ女史の編著で刊行された書簡集『84,Charing Cross Road』だからである。英米では、出版された直後から大きな反響をよび、ロンドン、そしてブロードウェイで舞台化され、テレビドラマにも翻案された。現在でもよく知られている原作である。日本でも『チャリング・クロス街84番地-書物を愛する人のための本』として、1972年に“リーダイ”こと、日本リーダース・ダイジェスト社(当時)から翻訳出版されて話題になった。このリーダイ版は数年で絶版になったようだが、1980年には講談社から復刊され、さらに、1984年には旧中央公論社が文庫化している。

中公文庫版の原作本

中公文庫版の原作本

版元は変転しながらも、映画が製作本国で公開されるまでに日本でも10年以上再版されているのは、出版社として殊勝な志があったからではなく。この書を求める読者がそれだけいて、読み継がれてきたからに他ならない。その読者たちは映画の潜在的観客となり得たはずで、当時日本で劇場公開してもそれなりの集客はできたはずと思うのだ。

今日ではリーダイ版、講談社版とも、それこそ“古書”でしか求められないが、、中公文庫版は読売の中央公論新社にも引き継がれたようで、2010年4月には第10刷の新本が出されていて、アマゾンなどでも入手できる。(ただし、2012年5月時の中央公論新社のデータベースでは、検索してもヒットしないので、多分、中公文庫版も在庫限りで絶版になるのだろう。)

ちなみに、日本語訳は初出から江藤淳。戦後日本の文芸批評や思想において一角を為したあの江藤淳が、生涯4作を手がけた翻訳の1冊がこれなのだ。
原著英文の手紙は、簡潔で美しい日本語に読みやすく書き換えられ、しかも原著にある書き手の情感やニュアンスは失われることなく、時に情景までも伝える筆力は、さすがに見事だ。ちなみに上で引用した、ヘレーン・ハンフ女史が最初にマークス社に宛てた手紙文も江藤訳による。

16年を経て、ようやく日本でもDVDリリース

DVD日本版

国内リリースされたDVD

未公開のままだった映画は、2002年になってようやく、配給元のコロムビア映画の親会社であるソニー・ピクチャーズエンターテイメントから日本向けにDVDがリリースされた。デジタルのホームビデオながら、16年越しで国内でもやっと観られるようになると、やはり、原作本のロングセラーから反響があったのだろう。その後2008年、2009年と、リニューアル・リリースされ、今ではTSUTAYAでもレンタルできる。

江藤もあとがきで解説していることだが、原作の往復書簡集は同時に、イギリス文学の第一級の読書案内でもある。また、第二次大戦が終わって数年後から20年間の英米両国の時代状況やイギリス人、アメリカ人それぞれの生活ぶりも、手紙から読み取ることができる。

映画は、そうした原作の優れた重層的な内容と往復書簡の構成を、想像力に満ちた映像で忠実に視覚化して見せる。映画オリジナルの要素を加えたり、視点を変えた脚色もしていない。そのため、書簡集を読んでいなくても、原作以上にその世界を経験できる。

20年に及ぶ書簡の往復は1968年末、フランクの突然の死で終わる。その間互いに会いたいと切望しながら、二人は遂に最後まで会うことはない。映像は当然、二人とそれぞれの生活や周囲の人々との関わりを、別々に描くことになる。
そのために、カメラクルーだけでなく、美術・照明・メイクなどのスタッフ・ユニットを、ニューヨークとロンドンとでそれぞれ別に組んでいる。ロケーション・ユニットを撮影地によってそれぞれに組む手法は珍しくはないが、それによって、ひとつの映画でありながらリズムもトーンも表情も異なる二つの映像が交流し合うように演出された映画は、めったにない。往復書簡だけで深い交流を重ねていた二人の時間と空間を、そういう手法で映像的に表現しようと企図したのだとすれば、その狙いは成功している。

重い雲が立ちこめたようなロンドンの街並み。ショーケースに品物のない店先の列に並ぶ人々。そこにフランクの姿も・・・。戦勝国でありながら、終戦直後から1950年代のイギリスの経済は疲弊し、食料・生活物資は配給制の時代が続いた。ブライアンからそうしたイギリスの社会情勢を聞いたヘレーンは、フランク宛に食肉や卵などを、折あるごとに送りつづける。

歴史を感じさせる木製家具や本棚の並ぶ、古色蒼然としたマークス社の店内。送られた食品は他の店員たちにも分配される。感激した店員たちからもヘレーンに手紙が届き、親愛と交流の輪が広がっていく。原作の書簡集にはそれらの手紙も収録されているが、映画ではそれらをエピソードとして映像化して見せる。

一方、ニューヨークではマークス社一同から御礼として送られてきた恋愛詩集に、ヘレーンは大喜びする。もちろん古書だが、新書版サイズでグリーンのクロス貼り装丁の素敵な本だ。早速読もうと、公園に出掛けるヘレーン。その陽光の明るいこと!

それは戦後史のイギリスとアメリカの対比でもある。先の請求書のポンド価をドルに換算して、意外な安さに小躍りするシーンも、そのひとつである。パクス・ブリタニカは終焉し、アメリカのもっとも幸福な時代が始まりつつあった、そういう時代の一面もこの映画は伝えているのだ。

主役の二人、ヘレーンにはアン・バンクロフト、フランクにアンソニー・ホプキンス。二人とも若い頃を演じるにはといささか薹(とう)が経っている感じが拭えないが、それぞれに魅力的な人物を創り上げ演じている。脇を固めるのも、ジュディ・デンチマーセデス・ルールといったオスカー俳優に加え、イアン・マクニースエレノア・デヴィッド、モーリス・デナム、ジャン・デ・ベア・・・と、キャリアも演技力もある個性的な俳優が手堅く演じ、どのキャラクターも印象深い映画になっている。

イギリスの名優たちに特に注目

もともとこの映画は、原作を愛読していたアン・バンクロフトが熱望し、彼女の夫で名喜劇俳優・監督のメル・ブルックスが、愛する妻のためにプロデュースしたということだ。だから、アン・バンクロフトのヘレーンもなかなか好いのは当然だが、個人的にはアンソニー・ホプキンスとジュディ・デンチの静かで硬質な演技に注目したい。

アンソニー・ホプキンスは『羊たちの沈黙』(1991年)のハンニバル・レクターで、ジュディ・デンチは『恋におちたシェークスピア』(1998年)のエリザベス女王(1世)や『ゴールデンアイ』(1995年)以降の007シリーズのM(ジェームズ・ボンドの上司)で、どちらもコワモテのイメージが強い。しかし、本作ではそうした定番を裏切り、誠実温厚な英国紳士とその妻を、二人して演じていて、しかもその役作りは質が高い。

近年ハリウッド映画では、実話を基にした映画に出演する俳優には、役のリアリティーにこだわり、モデルとなっている人物の特徴やしぐさ・表情、生活ぶりまでを詳細にリサーチして役作りする傾向が多くなってきているらしい。ロバート・デ・ニーロなどはその代表格で、演じる人物の実像に徹底して似せる彼の役作りは「デニーロ・アプローチ」とも呼ばれている。

その「デニーロ・アプローチ」に対して、「馬鹿げている」と痛烈に批判したのがアンソニー・ホプキンスだ。彼は「私にとって台本(脚本)がすべてだ。セリフを理解し、それを演技する。それが私の哲学だ」と発言している。

人物を演じるとは”その役を生きること”だと言う。「デニーロ・アプローチ」はそのためのプラグマチックな方法と思える。だが、「台本がすべて」だというホプキンスの”哲学”のほうがシンプルで、原理的で、潔さをを感じる。

“その役を生きる”とは、モデルの人物を模写して再現することではもちろんないはずで、俳優自身が、台本に書かれている言葉と登場人物の振るまいを媒介に、自らの想像力によってその人物をリアルな存在にかたちづくることが王道だ。

だから、アーチストとしての俳優であるホプキンスが、自らの想像力によって造形したフランク・ドエルという人物像は、モデルとなった実在の人物とは似ていないかも知れない。
だが、俳優が生きるのは、かつてマークス社にいたフランク・ドエルその人の写し絵ではなく、『チャーリング・クロス街84番地』という映画の中の世界にいるフランク・ドエルという人物なのだ。

そうすることによって、ホプキンスが演じる役は、彼の想像力が創り出した、しかし実在的な人物そのものとなる。観客の想像力もそれに刺激され、反応なり感動が生まれるのだ。実在したフランクの在りし日を再現することが、俳優の任なのではない。

俳優が役作りのためのリサーチをすることが悪いとは思わない。役や物語の世界観にヒントを得るために必要なことでもある。しかし、デニーロ・アプローチは行き過ぎれば、俳優・観客双方の想像力を退行させ、単なるスペクタクル=見世物を表出させるだけだ。

ジュディ・デンチの演技も、彼女自身は特に発言していないが、アプローチはホプキンスと同じように思う。彼女が演じているフランクの妻・ノーラは、原作と照らすとデンチでは重厚すぎる感じがしないでもない。しかし、ホプキンスとの、会話の少ない夫婦の、お互いに相手の表情を伺いながら、互いの距離を計り合いながら相手を気遣っているといった、微妙で繊細な掛け合いで見応えがある。

後日談として、フランクの死後、やっと念願のロンドン行きを果たしたヘレーンがノーラを訪ねて語り合う、アン・バンクロフトとの差しのシーンも心を打つ。それは、上述の夫婦生活でノーラが抱えていた、ある種の「心の暗部」を打ち明ける場面でもある。

「あけすけに申し上げて失礼ですが、ときにはあなたに嫉妬することもありました。主人があなたからのお手紙をたいそう楽しみにしていましたので・・・。それに、ユーモアのセンスも主人といっしょのところがあったようで・・・」と。

このノーラの告白は、原作の書簡集ではヘレーンからの弔状にノーラが返信した書簡として収められている。
ただ、この部分を捉えて、本作の書簡集や映画を「プラトニックな珠玉のラブストーリー」と評する向きがあるが、はっきり言ってその見方は底の浅いロマンチシズムでしかない。(困ったことにDVDの発売元までが、そんな陳腐な内容紹介をしているのだから、まことに程度が悪い。)

ここでノーラが打ち明けているのは、ある種の「心の暗部」であり、それをヘレーンに伝えることで、翻ってフランクもまた、満たされない「心の暗部」を抱えていたことを読者なり観客に想像させる。ホプキンスとデンチの夫婦生活のシーンはそれを示唆するように、二人して演技を組み立てているのだ。

だが、フランクの抱える暗部がヘレーンとの書物をめぐる交流によって満たされるところがあったとしても、それは「プラトニック・ラブ」などという短絡的なものではない。もっと知的で、プロの古書バイヤーとしての満足感につながるものだったはずである。妻や家族に向ける愛情や親愛とは別の、敬意と共感、そして書物への愛情と信頼が、フランクとヘレーンをつないでいたのである。

アンソニー・ホプキンスは『羊たちの沈黙』での役作りについてインタビューを受けた際に、こんなことを言っている。たぶん、これが彼の役作りの本質だろう。
「・・・私は(演じる人物の)精神の暗部に惹かれる。人間のもっとも創造的な部分だからだ。精神の暗部を否定すれば、人生はつまらなくなる。・・・」と。たぶん、彼の役作りの本質を語っている
アンソニー・ホプキンスとジュディ・デンチ。二人の演技、役作りの共通項は何だろう。
仮説的に言えば、ハリウッド映画の演技ではないということだ。二人とも、イギリスの伝統的演劇学校でスタンダードな俳優教育を受け、舞台俳優として長いキャリアを重ねている。「台本がすべて」というホプキンスの哲学は、イギリスでも日本でも、舞台俳優を志す者が最初に叩き込まれる修行の鉄則であり、演劇的想像力を磨く唯一のアプローチでもある。二人の演技力は、まぎれもなくそうした鍛錬の賜物なのだと思うが、的外れだろうか。
修行と鍛錬の結果として、二人はともに、英王室からナイトの称号(男性は「Sir:サー」、女性は「Dame::デイム」)を叙任されている。

なお、翻訳原作本で江藤淳があえてカットした後日談が、上記の通り映画には織り込まれている。だが、率直に言ってそこは冗漫な蛇足だという気がする。この映画のマイナス点は唯一この後日談のエピソードで、江藤の判断こそ正しいと思う。

「読んでから観るか、観てから読むか」という広告コピーがかつてあったが、どちらが先にせよ、インターネット万能時代にも手紙の力を見失わないようにするために、DVD+文庫本でも2千円しないのだから、『チャ-リング・クロス街84番地』は、手元に置いて観ておかれたいし、読んでおかれたい。

喪失感の由来はなにか?

東京写真美術館で開催されたフランスの写真家R・ドアノー、そして戦前に活躍した堀野正雄の写真展「幻のモダニストー写真家堀野正雄の世界」を見た。ドアノーはブレッソン、ブラッサイとともに写真の魅力を教えてくれた写真家たちの一人である。今回は、生誕百年記念として百八十六点もの作品が展示されていた。時系列で彼の最初期の作品から閲覧して驚かされたのは、その初期から彼の個性が作品に定着されていることだ。人物写真から、街の情景そして彼も参加していた戦時中のレジスタンス運動の写真にも、被写体にレンズを向ける彼の立位置に変化はない。レジスタンス活動を撮影するからといって、イデオロギッシュな視点に移行することもなく、あくまでも、街頭風景、子どもたちをスナップ撮影するのと同じ姿勢を保持していると感じられたことだ。初期の作品から晩年の作品に至るまで、脈みゃくと通底する主調音には断絶感はなかった。だからこそ見るたびに作品に新鮮さを感じられるのではないかと思える。

写真展の惹句に「幻のモダニスト」と冠された堀野正雄の写真には、逆に、断線を感じるのだった。展覧会での眼目の一つに写真集「カメラ・目・×鉄・構成」の作品群がある。産業革命以降の近代機械文明の成果である鉄を素材としたメカニカルな構築物を素材とした写真である。

展示されている「カメラ・目・×鉄・構成」の写真に釘づけにされるという充実した体験は訪れなかった。逆に空虚感というか喪失感といった、負の感情をもたざるをえなかった。いっぽう、同じ時期に、彼が雑誌「犯罪科学」に掲載していた日常生活を撮影したスナップ写真や朝鮮半島の日常生活、風物をスナップした写真には、時代を超えたリアリティーを生々しく感じることが出来た。

この体験の違和感はどこに由来をもつのか。

何年かまえに、日本のシュールレアリストとされる画家たちの展覧会を見たときにも同質の感情を体験した。そのときに、むかし読んだ小説の中の言葉を思い出したことが記憶に残っている。ゼラシネという言葉だった。そのときに目にしたシュールレアリズム絵画作品は戦前に制作された作品である。そして時代の中で、絵画史的な意味はもつのかもしれないが、絵画作品として現在性を秘めている作品は少なかった。絵画の前に立って足が釘づけとなる僥倖は体験できなかった。それは作品の持つモチーフが観念的であり、日本の文化的な水脈に根をおろしているとは感じられなかったからだ。時代に外挿された一過性の思潮に過ぎないと思えたのである。だからこそゼラシネ、根無し草という言葉が浮かんだのだろうと思う。 戦前の、日本シュールレアリスト画家たちの作品に感じた喪失感断線感覚と同じものを堀野正雄の「カメラ・目・×鉄・構成」の写真群にも感じた。それらの作品は現在性を喪失している。歴史的な資料としては価値を、生命力を持っているかもしれないが、目にする人間に問いかけてくる現在力は喪失している。 なぜなのか?

土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」の中に少女を撮影した1枚の写真がある。写真集の出版で注目された姉妹の、姉を撮影した写真である。写真集の出版は69年の暮れであるという。そして77年に新装版が出版された。手元にある写真集はそのときのものである。当時、周辺にいた写真関係の人間たちから写真を考える必須文献と紹介されて、手にしたのだった。

リアリズム写真の極致といった呼び方をされていたと記憶している。筑豊地方の荒廃した炭住地帯の生活情景を撮影したものだ。幻の写真集とされていた写真を目にして、十七年という時間の侵食を感じざるをえなかった。高度経済成長期を走りはじめていた日本の「貧しさ」の風景が転換を強いられていたからだ。いったい写真の中の何が時間の風雪に侵食されてしまったのか。問いだけが残された。ただ、写真集の中の1枚の写真が、私の中に、サスペンド状態で残った。少女のバストアップの写真である。写真の中には時代背景を語る情景などは写し込まれていない。ただどこかを見やる俯角する少女の視線が、少女の顔の表情と小さな手の指だけが写るだけだ。なぜその少女を撮影した写真が、その1枚だけが、時代背景を読む手懸りの希薄な写真が、時間の経過に侵食されずに、今も目にする人間になにごとかを問いかけてくる力を持つのか。

撮影した土門拳自身、唐突に、反射的に、少女の顔へレンズを向け、シャッターを切ったのではないか、彼の中で撮影意図が不分明な状態で、というより撮影させられたのではないかと物語風に想定する。他の写真群は、撮影意図が彼の中で言葉として分節化されていたと想像できるからである。そして言葉によって分節化されているそれだけ、時代の経過の中で作品の生命力は喪失され、現在性を風化させられたのではないかと思える。いわば彼の中にある自己必然性ともいえる力のなせるものではないかと思える。

堀野正雄の「カメラ・目・×鉄・構成」の写真群にも、言葉によって分節化された撮影意図が透視される。問題は、作品化しようとするイメージへの欲望を、欲望の必然性、由来を作者がいかに対象化、反省しているかという視点で、写真作品の歴史的な評価が必要ではないかと感じた。

『山口源の世界』

「本日休館」(2012年冬号)第20号をお届けします。えエ~、もう20号!

昨年(平成23年)11月27日、静岡県島田市にある島田市博物館分館にて開催されていた「山口源の世界」に行ってきました。山口源という版画家に関してはなんの知識もなく、以前、古本屋で「山口源 生誕100年回顧展」(静岡県立美術館)の図録の表紙しか見たことがありませんでした。今回、この展覧会があることを掛川市の道の駅にあった一枚のチラシで知りました。観覧料300円という安さがなんといっても魅力。また、この日は静岡県立美術館学芸員・泰井良氏の『山口源の作品について』というタイトルの講演が午後1時半から博物館工作室であり、ふと「行ってこようかな」と思い立ったのです。

初めての場所でしたが、地図をたよりに午前11時過ぎには駐車場に到着、早速チケットを購入。明治時代の古建築住宅を生かして展示室とした「海野光弘版画記念館」を一通り眺め、その裏にある分館に入りました。狭くて薄暗くなあというのが最初の印象です。

作品は21点、その他、版木や下絵などが展示されていました。作品を評する事などできませんので、いつものように、「この中で一番欲しい物はどれか……」を考えながら見ていくことにしました。歩きだしてすぐ、『石垣苺』という作品の前で、そんな考えがどこかへ行ってしまいました。その「瑞々しさ」に驚きました。今から70年前の1942年の作品です。この版画家は「ものすごい人」じゃあないか、抽象版画『太陰暦B』という作品に日本的な色彩を感じた時、そのように思いました。

会場を2周半して最後に『石垣苺』を見て会場から出ました。チケット購入して分館を出るまで入場者は私一人でした。

「とんでもない版画家」かも知れない、山口源という人の心象風景に興味を持ちました。

午後の講演会には30人以上の人が参加していました。参加者に年配者が多かったのは、この講演が「平成23年度島田市博物館講座」として企画されていたせいだったようです。

泰井良氏の講演『山口源の作品について』は「とんでもない版画家」かもしれないという思いで、ワクワクした私の気分を鎮めるものではありませんでしたが、いただいたテキストは山口源という人を知るキーワードでいっぱいでした。「版画」「版画家」の歴史、年譜にそって山口源という人の解説が主な内容でした。

講演終了後、場所を「博物館分館」に変え作品鑑賞会となりました。今度は参加者の皆さんと一緒にふたたび作品を見ることになりました。博物館の担当者が作品にカメラを向けて撮影し始めたので、私もバッグからカメラ取りだして撮影させていただきましたが、上手く撮れませんでした。木片・落ち葉・ひもなど身のまわりにあるものを版木の代わりに使ったこと、展示されている下絵・版木を見ながら制作過程などの解説を受けました。昭和33年4月、第5回ルガノ国際版画ビエンナーレ展でグランプリを受賞した『能役者』という作品も展示されていましたが、その前後から抽象的な作品が主体となってきたようです。これまで木片(『能役者』は板目が人の顔のように見える)を版木として使った版画など見たこともありませんでした。

いただいたテキストに「民族の必然的露出、特定のモデルはない。私の私だけのイメージにすぎません。イメージが作家の側に発酵しつつあるとも、その外部の世界に“材料”を発見し、その両者の交合によって作品が結晶していく」という山口源の言葉が紹介されていましたが、あらためて見た『太陰暦B』という作品の色は、やはり、とても「日本的」というか、「日本」を感じさせるものでした。

山口源は1896年10月、静岡県富士市生れ、1976年7月逝去。その青春期は謎に包まれた部分が多くあるようです。1998年1月~2月、静岡県立美術館にて「富士に生まれ沼津に没した抽象木版画の開拓者・山口源/生誕100年回顧展」という展覧会が開催されました。また、1993年3月『能役者-孤高の版画家山口源の生涯』という書籍が発行されています。著者は当時「山口源の会」会長・外三千介(そで みちすけ)。

島田市まで足を延ばして良かった……新しい発見ができて良かった……山口源ってどんな人なんだろう……帰路、まだまだ知らない作家・画家はたくさんいるなあと考えつつ、洲之内徹『人魚を見た人(耳の鳴る音)』に書かれていた言葉を思い出しました。

「……博物館を追出されて夕暮の猿沢の池のほとりを歩いて来ながら、私はふと、人間は何も分らずに死んでしまうんだなあと思った。人間といってもつまり私のことだが、そう思って眺める水の涸れた池の眺めは淋しい眺めであった。」

次回は4月末の更新予定です。ではそれまでごきげんよう。