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“休日は茶畑で” この冬したこと、思うこと。

冬の茶園のスナップ

冬の茶園(静岡清沢の山の上で)



 昨年(2016年)の12月4日(日)、やっと茶園の均し刈り作業が終了しました。
 作業の相方は近所に住む10歳年上の方です。急な坂もあるので、地元の方に手伝っていただくのが一番安心です。裾刈りを含めてほぼ1日かかりますが、毎回ここへ登って来るたびに「いつまでやれるかな…」と弱気になります。でも、ここは八十八夜に間に合うくらいに新芽が出て、毎年最初に収穫できる畑なので捨て難いところです。

 あと、12月の残りの作業は、毎年10月に手に入る軽トラック1台分の藁を茶園に敷き詰めることです。場所は一番近い茶工場の横。一束を押し切りで3等分に切り分けて、ほぐしながら敷いて行きました。残った藁は1月中に、茶園の別の場所に敷くつもりです。

 掛川では茶草場農法といって萱を敷くそうです。私も以前河原に生えている萱を束ね、まとめて乾燥(かっぽしと言います)させて茶園に敷いたことがあります。その萱を手に入れることが難しくなって困っていたときに、知り合いの同僚が藁を譲ってくれる話があり、少しの謝礼で分けていただけるようになりました。不思議なことに、困っているときにはいつも助けてくれる方が現れます。

 さらに、その茶園のすぐ横に母が約15年前にコナラの木を3本植えました。その木が茶工場の屋根の高さにまで伸びてきました。落ち葉が秋から茶園に落ちて地面を覆うほどに全て落ちてくれればよしと思っていたのですが、そう上手くは行かず、茶の樹の上にとどまってしまいます。このため、せっかく伸びたコナラですが、伐採することにしました。

 根元付近で一気にチェーンソーで切ってしまうと、倒れた木が茶園と植えたばかりの玉ねぎ畑を荒らしてしまう恐れがあるため、一本を3分割にして上からロープを引っ掛けて少しずつ鋸で切り降ろし、最後に2m余りをチェーンソーで切り倒しました。

 切り分けた幹は、並んで植えてあるレモンの木の葉っぱ付き剪定枝で覆うように掛けて、来る春には椎茸となめこの菌を打つつもりです。来年には収穫出来ると思います。細い枝等は、味噌の仕込みの時に大豆を煮る薪に使います。ささやかな楽しみも持てる山の生活は、自分には性に合っています。
 無機質な都会生活より、こうした土のある生活が性に合うなどと言うと、ネットの光も来ていない不便なところに住む者の強がりに聞こえてしまうでしょうか?

 さて、平日の仕事は1月にいよいよ定年退職を迎えました。再就職して働き出すまでは、今まで出来なかったことを遊びも含めて実現出来るかなと考えています。
 この正月は喪中だったこともあって、孫の相手をしながらゆっくりとし、1月から3月の予定を手帳に書き込むことができました。酉年生まれではあるけれど、はたして今年こそ予定通りに行けるでしょうか? まさかはあっても”真っ逆さま”だけはないことを祈るばかりです。謙虚に一所懸命に進みたいです。

「ゆめまぼろしのごとくなり」(『人魚を見た人』より)


 その日は不思議な日で、夜、Tに会ったのとは関係なく、昼間、私は学校にいた頃からほぼ五十年ぶりに、しかもそれ以来初めて、もと東京美術学校の本科、現東京芸術大学美術学部の構内を、奥の方まで歩いてみたのだった。そこの芸術資料館で野見山暁治氏のデッサン展を見たついでだったが、すっかり変わってしまっていて、私は知らない学校へ入り込んだような気持ちになり、歩きながら、いまにも誰かに咎められそうな気がしてならなかった。・・・・・・
 ところが、・・・・・・何もかも変わってしまったはずの構内の、敷地の隅まで行ってみて、私は思いがけず、五十年前と全く変わっていないもの、しかも、それが変わっていないことに気が付くのも私だけかもしれないものを、そこで見たのだった。一瞬、私は夢幻(ユメマボロシ)のごとき心地になった。
・・・・・・・
 あのときのあの一瞬を、私が忘れるということはないだろう。それどころか、思い出せば昨夜のことのように、まざまざと浮かんでくる。とはいうものの、そんな記憶が自分の裡にあろうとは、普段は思ってもみない。たまたま五十年ぶりに、昔自分のいた学校へ来て、突然思い出したのだったが、忘却といい、記憶といい、いったいどういう仕掛けになっているのだろうか。
・・・・・・・
 いまここへ書いているような、こういうことの続きで、セントラル美術館の回顧展のカタログを読むと、次のような言葉が眼に付く。野見山さんがこう言っている。
 「過去に遡って歩くのは、どこかで、都合のいいものばかり拾い集めるようなウサン臭さがある」
 「回顧展というのは、画家の今日までを振り返って眺める催しかと思い込んでいたのは迂闊だった。実は、画家の傍にぴたりと寄りそい、絶えず唆かし、画家がどんなに、さよなら、をしても決して離れてくれないあるイキモノ、その正体をあばいてみせる企てだったのだ」
 「バックミラーに写る刹那の表情は、本人の関知しないところだ。走っている今の時点にしか〈私〉はいない」
という短い数行では、私は野見山さんの絵を眼に浮かべた。芸術資料館でデッサンを見て、回顧展で油絵を見てよく分ったが、野見山さんは、対象から生まれる最初のイメージを画面に描き、すぐ、また、そのある部分を塗り潰し、押え、描き起ししながら、最終的なフォルムに近付いて行く。画面が刻々と変化し、推移するが、考えてみれば、動き続けているのは野見山さんのイメージの方なのだ。「走っている今の時点にしか〈私〉はいない」と、絵の中でも野見山さんは言っているのだった。

(新潮社・刊気まぐれ美術館シリーズ(全6冊セット)所収)

野見山暁治のデッサン「風」1973年 76×57.2 グワッシュ/ペン/インク作品の画像

野見山暁治「風」1973年 76×57.2 グワッシュ/ペン/インク(新潮社『人魚を見た人』より)


[Editor`s Note]

 今年(2017年)の1月19日~2月1日、東京銀座のナカジマアートにて野見山暁治の新作展が催された。油彩、水彩、立体作品、パリのアンティーク品に収められた絵画など約40点が並び、展覧会終了後も一部作品は継続展示されている。
96歳を迎えてなお創作をつづけ、現役日本画壇最長老でもある野見山暁治。2017年の2月26日には信濃デッサン館(上田市)で開催中の「槐多展」に併せ。「170歳対談-話したいこと、聞きたいこと」と題して、同館館長の窪島誠一郎との公開対談もしている。信濃デッサン館に併設して戦没画学生の遺作・遺品を展示する無言館の実質的な創設者は野見山だが、今回取り上げた洲之内の本文にはその背景と想いへの感慨が記されている。

 洲之内徹が画家として野見山暁治について書いているのは、たぶんこの一文だけではないだろうか。二人の間には日常的に親密な交誼があった様子はない。どちらかというと、お互いにある種の構えた関係が窺える。

 野見山暁治は画家としてはもちろん、文章家としても超一流で著作も多い。いっぽう洲之内は、画家ではなく美術鑑賞者であるが、その眼力と文章の才は白洲正子や小林秀雄が当代随一と賛嘆した通りである。二人はそれぞれに相手の才を敬意をもって意識し、互いに評価していたのだろうと思う。だがしかし、世俗的に言えば、”趣味が違う”とか”心性が合わない”といった、あえて和したくない、認め難いと思うような情動が野見山に、そして、苦手の気が洲之内に、それぞれあったのかもしれない。

 洲之内の方が七歳年上だが、その年長者に対して野見山の言い様は、一見辛辣で遠慮がない。
 「あの表情を御覧なさい。顔の造作のどこひとつにも自信のない、花札でいうならばカス札ばかりよせ集めて出来あがっている配列の、いったい、そのどこに焦点をあわせたらよいのか、洲之内さんと向いあって坐ると、わたしはいつも戸惑う」

 この引用は、本文にも書かれている『洲之内徹小説全集』の第2巻月報への野見山の寄稿である。野見山は洲之内から自分の顔を描いてくれと頼まれて気楽に受けたものの、いざ向き合うと「幼いころから見慣れた、どこにでもある小父さんのツラツキ」で、「うす暗い電燈の下で暮らしていた時代の、そのまま据え置かれた男の顔」だと、こき下ろすのだが、そこには、気の置けない相手を親しみをこめて揶揄しているような趣と敬意が感じられる。
 いっぽう、そう言われた洲之内は怒るでもなく、大人の対応とも読めるようだが、やはり相手への敬意を感じさせる返答をするのである。
 「野見山暁治という人は不思議な人だと思う。・・・・・・ろくに会って話したこともないのに、どうして私という人間をこんなに見抜いてしまうのか、不思議という他はない。本当に、私は一度も野見山さんと話をしたということがないのだ」

 野見山暁治の叙述から「徹底的に洲之内を批判した」と評する人もいるが、二人の間にあった実相は、それほど近視眼的なところで見えるものだったのだろうか。

老いたり。されど、日々是好日

ハノイの漢方薬舗イメージ画像


 今回の一服本。

病はケから 老けない体と心の作り方』(小林一広:幻冬舎 2014/8/27))

病気は才能』(おのころ心平:かんき出版2011/9/22)

薬が病気をつくる ~薬に頼らずに健康で長生きする方法』(宇多川久美子:あさ出版2014/4/24)

 あい変らずの「ケンコーおたく」ぶりだが、じつは、口ほどにマジメではなく、かなりいい加減。ヒトは神でも悪魔でもなく、万物の霊長でもなくて、ヘビ・蚊・小鳥・タツノオトシゴ・まんぼうと同じ生き物とちゃいますやろか?

 77歳になって、やっとワカッてきたことあり。
・文明はヒトを家畜化する。
・人類の残り時間は2分30秒。
・未来は昆虫が王様。
・食糧難を救うのも昆虫食。

 長生きしたかったら医療とかかわるな。どうせ死ぬのなら、ガンがいい。ガンは敵ではない。ボケも天の配済だ。
 「若さ」に代わる価値観、ソレは「粋」。

 未だによくワカラないコト・モノ・ヒト。
・死んだらどうなるか? トラは皮を残すが、ヒトは金歯ぐらいか。
・カラスや象は、死に場所を秘している。ヒトも至る所に青山あり。「のたれ死」もよいではないか。
・インド人は人生を「学生期」「家住期」「林住期」に分け、その後は「遊行期」としている。つまり、行方不明となる。

「目に見えない世界をもっと信じよう」と、水木しげる。
「誰もみな、生ずるを知らず、住み家もなし、帰らばもとの土になるべし」と、一休禅師。
「災難に遭ったら遭うがよかろう、死ぬ時節には死ぬがよかろう」と、良寛和尚。

岩波文庫『養生訓・和俗童子訓』表紙画像

柏原益軒『養生訓・和俗童子訓』(岩波文庫)

 加えて、
「およそ人の楽しむべき事三あり。一には、身に道を行い、ひが事なくして、善を楽しむにあり。ニには、身に病なくして、快く楽しむにあり。三には、命長くして、久しく楽しむにあり。富貴にしてもこの三の楽なければ、真の楽しみなし。故に、富貴はこの三楽の内にあらず。もし心に善を楽しまず、又、養生の道を知らずして、身の病多く、其のはては短命なる人は、この三楽を得ず。人となりて、この三楽を得る計(はかりごと)なくんばあるべからず。この三楽なくんば、いかなる大富貴をきはむとも、益なかるべし。」と、これは貝原益軒。

われ老いて、多くの師あり。

「沈黙」との邂逅

映画「沈黙 サイレンス」のシーンスチール画像(「沈黙 サイレンス」<a href="http://chinmoku.jp/">公式サイト</a>より)

(C)2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved./「沈黙 サイレンス」公式サイトより





 マーティン・スコセッシの監督映画『沈黙-サイレンス-』を観た。”ギャング映画の巨匠”と言われるスコセッシが描いたのは、遠藤周作の『沈黙』の世界である。

 『沈黙』を読んだのは20歳代の頃。歴史知識にはそれなりに自負があり、史実・史料にも浅薄ながら多少は通じているつもりでいたが、宗教については若気の無知・無関心を無神論と言いつのっていたこともあって、物語としては興味深く読んだが、そこで遠藤が何を伝えようとしているのか、今ひとつよくわからなかった。それは、1971年代に篠田正浩が原作者の遠藤と共同脚本で撮った映画(『沈黙 SILENCE』)でも同様だった。いや、むしろもっと「?」が増えた印象だったような記憶がある。

 だが今度、スコセッシが映画にしてみせたそれは違った。ようやく、そうか、そういうことかと、あらためて原作に、遠藤の想いに邂逅したと思われたのだった。
 とりわけ印象的だったのは、主人公の若きポルトガル人司祭、セバスチャン・ロドリゴが、隠れキリシタンの民たちに加えられる苛烈な弾圧と残虐な拷問についに耐えかね、幕府長崎奉行が求める”転ぶ”=棄教を受け入れるシーン。「こうして司祭が踏絵に⾜をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」と、わずか一行程度で記された原作のこの場面が、じつに多くのこと語り、劇的でクライマックスと言えるところかを、スコセッシは見事に描いてみせてくれた。

 奉行所の庭に置かれた踏み絵のための銅板。そこには主イエスの像が彫されている。ついに棄教を諒とし、その証として神の像を踏むことを求められるロドリゴ。土足を乗せようとして尚躊躇する若き司祭に、それまでどれほど彼が悩み苦しんでいても、いつも「沈黙」するばかりだと思われたイエスのの声が聞こえる。「踏むがよい」と。「お前の⾜の痛さをこの私が⼀番よく知っている」・・・と。

 ロドリゴがイエスの像を踏むシーンは、映画でもこの物語のクライマックスで鮮烈だが、そのズームカットは瞬時で、すぐにカメラは引き情景全体が映し出される。漆黒の闇に覆われていた弾圧の庭の空が薄明の青みを帯びている。そして、遠くから一番鶏が明けの声を告げる・・・。ゾクッとするような映画の凄みを、ひさびさに感じた。そして、カタルシスが訪れる。
 そう。神は「沈黙」するばかりではなかったし、ラストのカットを見るまでもなく、ロドリゴはけっして転んで(棄教して)はいないことを、完璧に映画の文法で語ってみせてくれた。かつての浅薄な若い読者には伝わらなかった原作の核心に、数十年を経て邂逅した瞬間だった。

 キリスト教に疎い者にはピンと来なくて当然だが、「鶏が遠くで鳴いた」は新約聖書の「ペテロの否認」に因んでいる。昨日までとは違う日の始まりを表す一番鶏ではない。信仰と殉教の狭間で苦悩しながらイエスを踏むことでイエスと深く出会うロドリゴは、十三使徒の一人ペテロとも重なる。自らも転びキリシタンである通詞の武士が言う「形だけ」転ぶのだが、けっして信仰をけっして捨てることはない。イエスを内に抱え再生するのだ。

 17世紀の日本が舞台の、日本の文学作品である遠藤周作の『沈黙』の真意を、マーティン・スコセッシはみごとに映像化した。
 英訳であろうが原作本と出会い、生前の遠藤に映画化を申し込んだというスコセッシ監督が、28年もの間構想し続けた念願の作品。かつての衝撃的で魅了された、あの『タクシードライバー』にも通じる不穏な空気と緊張感の漂うスコセッシらしい映像のトーン。ハリウッド映画だがけっしてエンターテイメントではない。3時間近い大作だが一時もスクリーンから目を逸らさせない展開。エンディングロールが流れ終わったときの満足感。映画を観ることの至福を久々に感じた。

 この映画には、まだまだ語りたい欲求に駆られるシーン、カット、映像が多くある。もう一人の主人公であり、ロドリゴやペテロの、ある意味で鏡面でもあるキチジローの在りよう。ロドリゴの師フェレイラが言う「この国は沼だ。すべてのものを腐らせていく」ということば。キリスト教における殉教的信仰と再生に対して仏教の悟りとの交差・・・・・。

 そして、そのどれもが俳優たちの好演と不可分だ。
 主演のアンドリュー・ガーフィールドは、『スパイダーマン』とはまったく違う苦悩の表情が素晴らしい。窪塚洋介にはキチジローそのものを生きているようなリアリティがある。
ロドリゴとともに来日し、辿り着いた異国のキリスト教へ苛烈な現実にも揺らぐことなく、信徒を助けようとして殉教するガルベ司祭を演じるのは、『スターウォーズ フォースの覚醒』の”ダースベイダー2世”的敵役、カイロ・レンで注目されているアダム・ドライヴァー。彼は、今日的な聖職者のイメージとは違う、この時代のイエズス会士像をイメージさせて印象深い。そう、17世紀日本へのイエズス会による布教は、大航海覇権を競う西欧植民地主義の先駆的な探検でもあり、渡来した宣教師たちは聖戦士の気概と荒々しさを備えていたはずだ。

 モキチの塚本晋也の真摯な演技には、同じ映画作家としてのスコセッシへの深い敬意が感じられる。転びキリシタンでもある通詞役は、当初は渡辺謙がキャスティングされていたと言うが浅野忠信で正解だ。モニカの小松菜奈もいい。
 イッセー尾形はいささかやり過ぎの感もあるが、セリフもなく一瞬の目の表情だけで宗教談義のシーンを息詰まるものに締めた中村嘉葎雄の老練が凄い。

 残念ながら第89回のアカデミー賞には、撮影賞(撮影監督ロドリゴ・プエリト~第64回ヴェネツィア映画祭金オゼッラ賞受賞)でのノミネートだけに終わったが、マーティン・スコセッシ監督26年越しの念願の企画が素晴らしい映画作品に結実したのには、脚本を共作した著名ライター、ジェイ・コックスと編集のセルマ・スクーンメイカーという、監督と同年代の盟友の力も大きいことを記しておきたい。
 個人的には、少なくとも同じく大作だった『ギャング・オブ・ニューヨーク』よりも、スコセッシ映画の中でこの先繰り返し観たい作品になることは間違いない。

『奇蹟の画家』 ~この一冊★本日休館コレクション No.7 


 昨年(2016年)12月初旬、神戸・三宮のハンター坂沿いにある、ギャラリー島田で開催されていた「石井一男展」を見てきました。

石井一男展ポスター画像

石井一男展ポスター



 到着したのはお昼すぎくらい。地下の展示室へ降りて中を覗くと、5,6人が絵を見ていました。こじんまりしたギャラリーで、入館していつものように「一番欲しい」と思う絵を探しました。

 「サムホール」(約23㎝×16㎝)と呼ばれる絵の大きさを表す言葉を初めて知ったのは、この本だった次第ですが、ひとつの壁面にその「サムホール」の絵が横に5枚、縦3列、計15枚がきれいに並べて展示されていました。グワッシュ(この言葉も、本によって知りました)という絵具で描かれているそうです。

 15枚の絵をしばらく眺めていましたが、真ん中の列の左から2枚目の絵が、一番欲しいと思う作品でした。特にタイトルもついていなかったので、勝手に「15のなかの母子像」と名付けました。縁があればいつか我が家の壁に飾る日がくるかもと、その時を楽しみに待つことにして、ギャラリーを出ました。

 「石井一男展」は毎年11月から12月にかけて開催されているようです。ギャラリーの壁には今後の展覧会予定が、下記のように掲示されていました。

 2017年6月21日(水)~28日(水) ギャラリー枝香庵(東京・銀座)
 2017年11月25日(土)~12月6日(水) ギャラリー島田

ギャラリー島田(神戸三宮)のエントランスのスナップ

ギャラリー島田(神戸三宮)のエントランス




ギャラリー島田の地下展示室入口のスナップ

ギャラリー島田の地下展示室入口




 神戸夙川学院大学の学長も務め、大佛次郎賞などの選考委員でもあるノンフィクション作家の後藤正治による『奇蹟の画家』は、講談社創業100周年記念の書き下ろし作品として刊行されたもの。古書としては、今でも、どこからでも購入できる一冊です。
 2009年12月第1刷発行、2012年11月には文庫本にもなっています。私が2016年の4月に藤枝市の古書店で購入したものは2010年2月第2刷ですが、ずっと手元においておきたい本のひとつです。

 読み終えたのは初夏でした。神戸のギャラリー島田は、洲之内徹との関わりがあったようで名は知っていましたが、石井一男という画家のことはこの本に出会うまで、TV番組の「情熱大陸」で取り上げられたことも含めて、まったく知りませんでした。

 石井一男と島田誠の出会いを軸に、石井の絵を求める人々の心の裡にあるものなどを通して石井の絵と生きざまを伝える評伝ノンフィクション。こんな画家がいるんだ、こんな画廊主がいるんだ。その絵を心の拠り所とする人々がいる・・・。読み終えたとき、実物の絵を見たいと思ったのです。

 描く絵はもちろんですが、自分の絵の説明をなにもしない画家・石井一男という人に惹かれました。また同時に、もうひとりの主人公であるギャラリー島田・島田誠という人の言葉(「蝙蝠日記」からの引用)は、いつか私がしようとしているものに対して、示唆に富んでいました。
 《・・・・・私がやりたいことは「作家の居場所」「作品の居場所」を探すことだと思い至ったのです。》
 《・・・・・絵を描き続けることしか存在証明のありようもない作家たち。世の中との折り合いがうまく出来ず不器用に、しかも純粋に生きようと傷ついた魂を抱える作家たち。私の魂に切り離しがたく居ついた人々は、人生という旅の同伴者であり、また家族でもある。》

 石井一男の絵を見た印象から、リルケの有名な詩を思い出したので、家に帰ってきてから調べてみました。タイトルは「秋」でした。

 「秋」 リルケ

 木の葉 落つ。遠くより散る來るごとく、
 み空の園の枯れしごとくに、
 はらはらと舞い落ちきたる。

 小夜ふかく なべて星より
 重き土 寂寥に向いて落つ。

 われらみな落つ。これの手もまた落つ。
 見よ、他のものを。なべのものに落下あり。

 されど 一人のひとありて、この落下を
 かぎりなく やさしく そのみ手に支えたまう。
 (星野慎一・訳)

 彼が描くもの、描こうとしているものは、こういうものなのかな、と感じたのです。

お知らせ
 WEBマガジン「季刊・本日休館」は10年目を迎えました。仲間どうしの同人誌のようなつもりで始めたWEBですが、変化速度の速いインターネットに対応できないまま時を重ねてきてしまいました。そこで、10年目を期してちょっと長めの休刊をいただきたいと思います。
 そして、できれば今夏ごろには、装い・内容構成を一新し、現代に対応したWEBマガジンにリニューアルしてリブートしたいと考えています。
それまでお問い合わせ等についてもお休みさせていただきますので、どうかご了解ください。

“休日は茶畑で” 2016年夏から秋を振り返る



 10月26日(水)、今朝は雨上がりの快晴。
 安倍川を渡る通勤途上、橋の上から、頂き付近に僅かに雪を被った富士山が見えました。
 会社から帰ってからそろそろ本稿をと、重たい腰を上げて愛用の高橋書店の手帳を開き、この夏からの作業を振り返ってみました。

 7月2日(土)と3日(日)の2日間、去年失敗した大豆用の畑の草取り・周りのみ囲った防獣網を天井にも掛ける作業に費やしていました。
 「35℃超えの暑さで熱中症にならないよう、40分作業20分休憩の繰り返し」
と記してあります。翌週の大豆播種に備えた2日間だったことを思い出しました。

 翌週の休日7月10日(日)には、前日土曜日(一応、会社は週休2日です。)の雨で延期した「大豆とトウモロコシの播種」をしています。
去年は失敗したので、同じ轍は踏まないように土質のpH値を測ってみたところ、4.4だった場所が6.8になったのでアルカリ性になったと思いました。

 『野菜がよく育つ植え合わせ術』という冊子によると、トウモロコシとの相性がいいらしいので、初めて同時に播きました。すると4日で大豆が発芽し、6日でトウモロコシも発芽が始まり順調に育ってくれました。

 ところが、大豆は実を付けたのに葉が増えず、成長も止まってしまいました。いっぽう、どうでもよかったトウモロコシは成長を続け、家では食べきれないほどに収穫出来ました。茹でたり蒸したり、ご飯に入れたり、ついには冷凍してと、夏中たっぷり楽しんだのでした。

 でも、念願の大豆はまたまた失敗。いったいこの皮肉な結果から、畑の土は何を語っているのだろう?
 うまく出来ないと余計に挑戦する気持ちが掻き立てられます。この冬には何とか土の声を解読し、よく調べて”三度目の正直”を来年は実現したいと思います。

今年も失敗した大豆畑の写真

今年も失敗した大豆畑

 話はガラリと変わり、10月10日(祝日)に例年のごとく茶樹の均(なら)し刈りの前段作業の裾刈りをしました。均し刈りで刈られた葉が下へ落ちるように、両側面を刈り落として畝の間を開けていくのがこの作業です。この裾刈りをしないと、刈った葉が溜まって凸凹になり、新茶の中に古い葉が混ざってしまうのです。手で摘み取るなら問題ありませんが、機械で短時間に収穫するためには欠かせない作業です。

 私は、刃の角度を垂直より根側を深く切るように、少し斜めに倒して刈り進めるようにしています。歩き易く、肥料が広がるように、また空気の流れが入り易いようにとの思いからです。
 10月22日(土)には、近所の方と終日均し刈り。予想よりはかどり、暗くなる前の午後4時30分頃に予定箇所が終了しました。残りはあと1箇所です。

 ところが先週、神社の祭礼の折に困った話を耳にしました。
 8月下旬から自宅横を流れる沢の砂防工事が始まりました。今回は3基目の堰堤の造成ですが、現場は文字通り見上げる程の高い位置で、重機やら資材やらを運ぶために索道を設置します。そのために経路の立ち木が伐採されたのですが、地権者の話では切り倒したままで、その箇所の山道を塞いでいる。業者には切って通行できるように要求したが、1か月経つ今もそのままだと。実はその箇所が、均し刈りが残った茶畑に通じる道なのです。

 それで、翌23日(日)の朝行って見てみると、道を塞いでいる木は直径20㎝に満たない太さ。ならばと、木を切る鋸、枝を落とす鉈、竹や茶樹を切り落とす1人用の剪枝機を使い、独断で実力行使。最後には9月の長雨でよく伸びた草を刈り払い機で刈って、道らしくしました。
 本来自分がやることではない、筋違いの作業をしていることに矛盾と腹立たしさを感じながらも、工事の進行を待っていたら、こちらの作業は越年して埒が明かなくなるので仕方ありません。

 さて、そうして山道を登って茶畑に着くと、そこにもまた9月の長雨で伸びた草の海に覆われていました。一瞬疲労感に襲われましたが、「まっ、今年は秋も高温で推移しているから、11月中に均し刈り出来ればいいか!」と居直って、綺麗にした山道をまた降りてきたのでした。

スロベニア・クロアチアへの旅-その1-



5月4日~12日、スロベニア、クロアチアに旅行しました。
海外のどこに行こうが、最初に決めなければならないのは出発空港です。私の住まいは静岡市なので成田からの出発は考えません。羽田出発になります。

0:50羽田発ANAフランクフルト便がいい

私の海外旅行は主にヨーロッパですが、ここ数年利用が多いのはANNの羽田―フランクフルト便です。この便は夜中の0:50出発-同日の朝6時頃フランクフルト着なので、乗り換えても昼頃にはたいがいのヨーロッパの主要都市に降り立つことができます。平日仕事が終わってからでも21時台の新幹線に乗れば間に合います。
帰りもフランクフルト―羽田便ですと、フランクフルトを0時頃出発で羽田着が朝の6時30分頃なので、早ければ9時頃には静岡に帰ってくることができます。

今回の旅行もこの便で行きました。フランクフルトからの乗り換えは3時間位で、スロベニアの首都リュブリャナの空港(ヨジェ・プチニク国際空港)には10時30分頃着きました。

スロベニアの首都リュブリャナへ

スロベニアは1991年まで旧ユーゴスラビア社会主義共和国に含まれる旧共産圏にあった。旧共産圏は、私の知る限り空港から市街までのアクセスがあまり良くありません。
私が海外旅行に持ち歩くガイドブックは、いつも「地球の歩き方」のみですが、そのそのクロアチア/スロヴェニア版によれば、空港から市街へのバスは28番乗り場で1時間に1本、所要時間は1時間(23km)となっています。

タクシーで行けば簡単なのですが、私は海外旅行では公共交通機関を利用することを基本としています。しかし、さほど大きくない空港でも外に出ればバス停は幾つかあり、これといった案内や標識もあるわけでもなく、たくさんの人がいるわけでもないのでので、どこが28番乗り場かすぐにはわかりません。この日は、たまたま作業(空港関係かは不明)している人たちがいたので尋ねると、仕事中にも拘らず懇切に教えてくれ、それで、市街まで行くバス停が判りました。
別に難しい場所に有ったわけではありませんが、こういうところで間違ってしまうと時間をムダにしてしまいます。10分ほど待つとバスが来て、乗り込みました。

市街リュブリャナ中央駅に着き、歩いてホテルに。まだチェックイン前の受付時間でしたが、部屋に入れてくれました。駅の近くにホテルを予約したのは、鉄道での移動を考えていたからで、これも私の海外旅行の基本です。
チェックイン後、シャワーを浴び街に繰り出しました。スロベニアはヨーロッパの南の位置ですので、この時期の気候は静岡と大差ありません。

スロベニアの首都リュブリャナの美しい街並み風景写真

スロベニアの首都リュブリャナの美しい街並み

美しいリュブリャナの街を歩く

リュブリャナの市街は他のヨーロッパの都市と同様、中世の歴史的建築が残る、たいへん美しい街です。ふと、ユーゴスラビア時代にはどんな都市で、この街で人々はどんな暮らしをしていたのだろうと想像してしまったのは、旧共産圏への私の偏見からかも知れません。

市内の名所・旧跡を歩きまわっているうち夕食の時間になったので、川沿いのオープンの店に適当に入りました。しかし、軽食しかないのでコーヒーだけ頼み、ガイドブックで近くにレストランがないか探しました。メイン通りから少し入ったところにある、中庭で食事ができるレストランに決めました。

一般に旧東側の国は植民地をもたなかったこともあり、他の民族の人間はあまり見かけません。東洋人も当然少ないのですが、目当てのレストランに入ると、入口近くの窓側に若い日本人の女性二人連れが目に入りました。ちょうど食事をはじめたところのようです。
二人も私が持っているガイドブックを見て日本人だとわかったのでしょう、一緒に食事しませんかと誘ってくれました。私も旅行の初日でしたので一緒に食事をして、旅の情報交換などしたかったのですが、この時期は室内より湿気が少ない外で食事をしたいという思いが強く、「このレストランに来たのは中庭で食事を取りたいからなのです」と伝え、彼女たちに「中庭に移動しませんかと」と誘いました。でも、彼女たちはすでに食事を始めたところでしたので、残念ながら移動は無理でした。

リュブリャナ市街の川沿いのカフェ出休む人々の写真

リュブリャナ市街の川沿いのカフェ

内陸の街で蛸を食す

レストランに入る時に「絵のメニューがあるか」と尋ねたところ「ある」との答えでしたが、実際はありませんでした。仕方なく、ガイドブックに丁度このレストランの食べ物が写真に載っていたのでそれをオーダーしました。
写真ではソーセージのようなものだと思っていたのですが、何と出てきたのは茹でたタコでした。リュブリャナは内陸の街です。まさかタコが出てくるとは思いませんでした。もう一度カイドブックの写真をよく見ると、確かに吸盤のようにものがあります。

食事をしていると、先ほどの日本人女性が中庭を見に来て、私のところにも別れの挨拶にも来てくれました。私が内陸の地でタコを食べていたのを、彼女たちはどう思ったのでしょうか。
明日、私はブレッド湖(「アルプスの瞳」と呼ばれています)に行くと話したところ、彼女たちは2日前までそこにいて、雪が降っていたと教えてくれました。

夕飯の蛸の料理の一皿写真

夕飯に食べた蛸料理の一品

救急車を呼ぶ

夜の7時頃ホテルに戻り、初日の疲れもあったので明日の準備をして20時頃には床につきました。すると、急にお腹が痛くなりました。時間がたてば良くなると思っていましたが、痛みは増すばかり。とうとう我慢ができなくなり、10時頃救急車を呼びました。
15分後くらいか、救急車が到着し救急隊員が担架を持ってきてくれたので、担架に乗せてくれと頼んでのですが、何故か歩かされて救急車に乗りました。救急車の中でもベッドに寝るのと椅子に座って行くのとどちらがいいと聞かれたので、「ベッド」と答えましたが、これまた何故か椅子に座ってと言われました。

病院へ向かう救急車の中で、救急隊員が東京はリュブリャナよりどれくらい大きいかとか、日本人を救急車に乗せるのは初めてだとか(私も乗るのは初めてだ!)、あれこれ聞いてきます。それどころではない私は「申し訳ないが腹が痛いので、少し静かにしてくれ」と返しました。本当は、私もリュブリャナの情報が欲しかったのですが・・・。

病院に着き、医者の問診です。ここからはスマートフォンの翻訳アプリでのやり取りとなります。
真っ先に聞かれたのは、薬のアレルギーはあるか?、で「ない」と答えました。私は夕飯にタコを食べたのでそれが悪いのではないか?、と言いましたが、茹でてあって生ではないのでそれは考えにくいとの答え。

そのうち女医が来て、二人で私の症状について話し合っています。その間、私は何度も「ヘルプ ミー」と叫んでいました。
女医さんから「お腹のどの辺りが痛いか?」と訊かれたので、背中の方を私は指しました。するとドクターは「結石では?」と。確か15年位前に一度経験があり、それと同じ痛さだと答えると、早速、若い女性のナースが来て点滴に入りました。

運ばれた救急車の写真

この救急車で運ばれた

病院の支払い150万円?、エーッ!

点滴の時間は?、と聞くと10分位だとの答え。15年前は1時間くらいsでしたが、それだけ医学が進歩したのか、それともお国柄か・・・。
それよりも、点滴中考えていたのは海外保険のことです。以前はクレジットカード(2枚)の優待で2枚とも海外保険がついていたので、保険は入りませんでしたが、年齢が高くなるにつれてクレジットカードの優待だけだは不安になり、5千円前後の保険に加入するようにしました。今回は初めての国であることと、情報が他のヨーロッパと比べて少ないこともあり、出発前に1万円の保険に加入してきました。ですから金銭的な心配はないはずなのですが・・・。

10分が過ぎると、今度は救急隊員が来て点滴を外しました。もう夜中で、疲れもあったのでベッドでそのまま寝てしまっていました。起こされると、痛みはだいぶ無くなっていました。救急隊員に廊下で待つように言われたので診療室を出ると、廊下には沢山ではありませんが患者さんが運ばれてきます。夜中そこに東洋人が一人ぽつんといるのが珍しいのか、私の方を見ながら通り過ぎて行きます。

しばらくして救急隊員によばれました。今度は支払いです。120ユーロ。処方箋の用紙を貰い病院の外に。この時、まだ気が動転していたのか、円換算を勘違いして150万円掛かったと思いました。120ユーロは当時のレートで15,000円位なのですが、間違いに気付いたのは帰りの飛行機の中。それまでずっと150万円、と思い込んでいたのです。

メディカルで2種類の薬を貰いました。支払いは確か20ユーロくらいだったと思います。それからタクシーに乗り、朝の4時過ぎホテルに戻りました。ホテルの外にレシプションの女性でしょうか、タバコを吸っていましたが、私の顔を見るなり「救急車で運ばれた日本人ね」と言われてしまいました。

ギョッ! 点滴針が刺さったままで

旅行では就寝時、ベッドの近くに貴重品をまとめた小さなバッグを置いておきます。何故ならば火災とか何事か不測の事態の際に、そのバックを持ち出せば何とかなると思うからです。
バッグの中に入れるのは、パスポート、財布(クレジットカード)、携帯電話、宿泊先のホテルカード、海外保険証書、航空チケットなど。それとガイドブックも、大使館・領事館などの連絡先が載っているため加えます。今回も病院に運ばれる時にはこれを持参したので、何も慌てることはありせんでした。

この日、午前7時28分の電車でブレッド湖に向かう予定でした。すでに出発まで3時間を切っています。病院にいたので、シャワーを浴びようかと服を脱ぎバスルームへ入りました。するとビックリ! 何と、点滴の針が左腕に刺さったままです。
自分で針を抜くのも怖かったですが、恐る恐る抜き取り、針穴跡をバンドエイドで留め、針はゴミ箱に捨てました。その後、ベッドで仮眠しましたが、シーツを少し血で汚してしまいました。シーツの血とゴミ箱の針をみて、掃除をする人は何を想像するだろうと思いながら、リュブリャナ中央駅へ向かいました。(続く)

「快楽の館」には快楽は非在だった



 <篠山紀信展「快楽の館」>を見に行く。
 <篠山紀信展「快楽の館」>は、2012年、東京オペラシティアートギャラリーで初めて美術館で開催された写真展<篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE BY KISIN>以来の久しぶりの美術館での展示企画である。

「篠山紀信 快楽の館」の展覧会案内写真

篠山紀信展「快楽の館」(原美術館WEBサイトより)

 壇蜜をはじめ32人の女性ヌードを撮影した作品(一部に男性のヌード写真も含まれていた)が美術館の壁面を飾っていた。

 「快楽の館」とタイトルは大仰で意味深だが、一歩会場に足を踏み込むと、一般的に”快楽”という言葉が発散する淫靡な、禍々しい雰囲気とはうらはらに、言葉に触発された先入観を裏切って、ヌード写真たちはあっけらかんとした健康力を発散し、乱舞しているのだった。期待していたような扇情的でエロティックな体験は、そこには微塵もなかった。若々しい全裸の肢体を目にしても、何らの感情の動きや、生理的な励起などもやってこなかった。篠山紀信が撮影した写真の世界が、あまりにも健康的すぎたせいかもしれない。

 作品の展覧会場とヌード撮影の会場とは同じ空間で、ヌード写真を撮影するための装置がさまざまに用意されていたが、それらも全く固有の発情機能を発揮していないかのようだった。会場となった原美術館は1930年代に建築された白亜の洋館である。白亜の洋館というだけで、ヌード撮影には十分に想像力を刺激する空間装置だと思うのだが・・・。

 モデルの女性たちは十分な量の媚びを含んでカメラ目線を送っている。くわえて、赤色や黒色のエナメルのピンヒールの靴を履いたヌードも、もちろんヌード写真の定番小道具として用意されているが、しかし、これだけヌード写真を撮影する小道具や装置を備えながらも、若々しい肢体の溢れる篠山紀信のヌード写真は、「快楽の館」という言葉を裏切っているのだった。

 健康すぎるヌード写真を前にして抱いた感想は、ただこちらの感性、審美眼などの能力を審級されているのではという意識を抱かされたことだ。

展示作品の壇蜜のヌード写真

展示作品の壇蜜のヌード(原美術館WEBサイトより)

 例えば過去の『誕生』や『死の谷(Death Valley)』といった篠山のヌード作品の延長線上に今回の「快楽の館」を想定してみると、断絶と違和感は否めない。展示されているヌード写真たちは、余りにも日常的な佇まいを表現している、というより日常生活そのもののなかにある。そういうヌードが異化効果を発揮する存在ではありえないことの、言わば証明体験かとも思わされた。

 日々の生活の中でヌード写真は特異な存在ではなくありふれた風景に過ぎなく、特権的な位置を喪失してしまっているのだろうか。

 この不感症的な体験のなかで、壁面を飾るヌード写真にかわって壁面を飾るのが実物のヌードモデル、裸体たちであったなら、この不感症的な事態は生じたであろうかとも考えさせられた。”快楽”という言葉が人の感性、欲望を刺激する力を喪失しているのでは・・・、と考えさせられたほどだった。

 そして、篠山紀信の今回の写真展は、ヌードモデルたちをきわめて日常的に、あっけらかんとした健康さで撮影することで、時代の空虚さを映し出しているのではないかという感想を抱いた。だから逆に、展示されている写真にかわって実物のヌードモデルが存在していたらどのような事態が生じたかを想像することも、写真を見ることの中に含まれている、問いかけられていると感じたのだ。撮影空間と展示空間とが同じであることの企画意図も、そこにあるように感じるのだが、どうだろう。

※「篠山紀信展 快楽の館」は原美術館(東京都品川区北品川4-7-25)で2017年1月9日まで開催。

若杉ばあちゃん 医者いらずの食養訓

秋の棚田風景(明日香)写真



 長々しき秋の夜は目が覚めちまってイザ起なん。
 起き抜けにはアート・ブレーキ「A Night in Tunisia」(BVCG-7337)を聴くか、モーツアルト「オペラ序曲集/指揮・アンドレ・ケルテス」(POCL-4543) にするか?

 『怖い俳句』(倉阪鬼一郎;幻冬舎2012年・刊)も『電磁波被爆』(船瀬俊介;双葉社2003年・刊)も、「歓喜」と「ホラー」と、どっちが脳に効くか? とにかく心を安定・安心にさせるものより心を落着かせぬモノの方がよろしく、金余りよりプア、ヒマより締切迫る方がよろしいようで。

 金子みすずの童謡詩にもギクリ!
<上の雪 さむかろな  つめたい月がさしていて>
<下の雪 重かろな  何百人ものせて>
<中の雪 さみしかろな  空も地面もみえないで>
(「積もった雪」)

 ボクの弱いアタマを占めているキーワードは、洗脳・洗心。そう、英語ではいずれもbrain washing。こころ凍らせてはなりません。ハートに火をつけ、どんでん返しさせる、魂をプルッとさせる。そんな絵や音楽はないものか。

 わたしゃ、信州信濃のお蕎麦より、天の神より、地のカミさんが怖いのよ。だが悦べ、キミはソクラテスにも漱石にも、ハイドンにもなれる。
 哲学すると言ってもしかめ面する必要はなく、御年79歳の若杉友子おばあちゃんの食養生書を拾い読み、盗み喰いし給え

『若杉ばあちゃん医者いらずの食養訓』(若杉友子・著;2016年4月,主婦と生活社・刊)の表紙写真

若杉ばあちゃん医者いらずの食養訓』(若杉友子・著;2016年4月,主婦と生活社・刊

 宇宙から人体まで、陰と陽があって、現今の人類は文明という名の「さかしま生活」の犠牲者、気の毒フグの毒だね。いや同情はしない、喝っ!
小生ウソは申しません。お腹に回虫を飼いなはれ。セイケツはビョーキで、畳と漬物と女房は古い程よか。あたしゃ半難聴だけど「オオそれ見よ!、惨たるcheer 」って大いに唄ってます。

田島隆夫 1987(パンフレット「画廊から」より)

田島隆夫「自然薯図」の写真

田島隆夫の「自然薯図」


 今年の個展の絵を決めに田島さんの家へ行こうと思い、電話で都合を訊くと、
 「お目に掛けられるようなものがあるかどうか、今年は本当にだめなんですよ」
と、田島さんは、まるで畠の収穫のことみたいな返事をする。しかし、私はもう驚かない。心配もしない。毎年のことで、田島さんはいつもそう言うけれども、行ってみると、必ず前の年よりも更に絵はよくなっているのだ。今年も行ってみてそう思った。よくないと言う田島さんは本気でそう思っているし、よくなったと思う私も本気でそう思う。
 絵を見終わってから夕食をご馳走になった。じゃが薯がうまくて、私はお替りをした。こういう薯を、というよりもこういう料理を、この頃私は食べることがない。このじゃが薯は田島さんの家で穫れたじゃが薯で、それを、奥さんが台所で、十分の心づかいと時間を掛けて煮ているのだ。薯を食べながら私は感動した。
 田島さんの描く大根も田島さんの家で穫れた大根だ、などとつまらないことを言う気は私にはない。たしかにこんな大根は八百屋には売っていないし、八百屋の大根ではこんな絵は描けない。しかし、私が言いたいのはそんなことではない。といってもうまく言えないが、ものの本当ということ、本当のもののことを私は言いたいのだ。
 それがいまの私、私たちの周囲には欠けている。本物に対する慢性的な飢餓状態の中に私たちはいる。私たちは渇いている。栄養過剰の栄養失調だ。田島さんの家へ行き、田島さんに会い、田島さんの絵を見、田島さんの織物の仕事場を見せてもらうと、私はほっとする。生き返った気持になる。

本文掲載の展覧会パンフレット「画廊から」写真

本文掲載の展覧会パンフレット「画廊から」

[Editor`s Note]

「田島隆夫 1987」展は、1987年5月18日~5月30日、洲之内がオーナーの現代画廊(東京銀座)で催されている。
追って、6月8日~27日 マエダ画廊(名古屋市)、7月6日~15日 菊川画廊(宇部市)、7月25日~8月3日 ロートレック画廊(長野市)に巡回された。洲之内徹は1987年10月に急死しているので、その5か月前の展覧会だったことになる。

地機織の職人・田島隆夫は独自の彩墨画も多く描いた。田島を見出し、「織司」と名付けたのは白洲正子だが、 上に取り上げたこのときのパンフレット「画廊から」には、白洲正子も一文を寄せている。長くなるが以下に転載する。

--「田島さんの展覧会は、今度で六回になるという。その度に私は何やら書いて来たが、さすがに六回目ともなると、もう種切れといった感じがする。絵を見る前から、そのことが私の上に重くのしかかっていた。
 それに今度は暇がなかったので、田島さんの家へ作品を見に行くこともできなかった。洲之内さんが選んだものを後で拝見したのであるが、拝見したとたん私の抱いていた危惧は去った。
 厚ぼったいカルトンの中から、最初の絵が出て来た時、まぶしい、というのが私の印象であった。そこには菜の花が、しかも盛りをすぎた菜の花が、三、四本描いてあったにすぎないが、その黄色の色彩が眼を射たのである。独活も、鬼灯も、ざくろの実も、葱や大根に至るまで、鮮やかだった。
 少しも色が濁っていない上に、充実しており、油絵を見るような立体感がある。絵具を変えたのかと思い、電話で田島さんに訊いてみると、前と同じものだといわれ、私は不思議に思った。
 おもうにそれは色彩だけのことではなく、全体の形が厚みを増したことの証拠であろう。花は花器の中にしっかりと根をおろし、大根は籠の中にずしりとはまりこんでいる。この安定感は以前には見られなかったものだ。気がついてみると、筆さばきも一段と上手になっており、葱の根や冬菜の葉っぱの軽妙なタッチは、人の眼をとらえずにはおかない。特に大根が七つ八つ並んで、互いにお喋りをしながら踊っている絵には、思わず笑いを誘うようなユーモアがある。
 田島さんはいつものように、極く自然に無心に筆を走らせたに相違ないが、私にもしいうことがあるとすれば、この筆の遊びの巧さにある。もちろん巧くなればなる程いいにきまっているが、それは同時に危険なことでもある。田島さんのような性格では、技術に溺れる心配はないとはいうものの、今はそういう危うい瀬戸際に立っていることを自覚して頂きたい。だからどうすればいいということは、私にはいえない。田島さんが織物で自得したものを、絵画の上に表現すればいいのだが、いうは易く、行うは難し。
 ねがわくは命ながらえて、余技が作品に結実して行く課呈を見守りたいものである。」

田島隆夫は白洲正子との出会いについて、「織の啓示」(1994年1月「アサヒグラフ」)という文章を遺している。白洲正子が銀座にか構えていた「こうげい」という工芸品の店で、何気なく話されたという、『絵巻物の一つ一つの絵をつなぐ間に描かれたところ』について、「心の中では、ただの何んでもない布が織れたらと掴みどころのないだいそれたことを思っていた」田島隆夫にとって、自分の仕事の在り方にかさなる部分があるように思え、とても示唆にとんでいて啓示ともいえるものになった、と。

田島隆夫の没後20年の展覧会が神奈川県南足柄市の個人美術館で、来年(2017年)1月22日まで開催中。詳細はこちらから。また、以下も参照されたい。
「画廊から」-現代画廊 田島隆夫 彩墨画展-
田島隆夫の彩墨画
気になる人 織司・田島隆夫