作成者別アーカイブ: haru

『田島隆夫の織と繪』 ~この一冊★本日休館コレクション No.6

 

古書店「本日休館」所蔵の一冊『田島隆夫の織と繪』と函の写真

古書店「本日休館」所蔵の一冊『田島隆夫の織と繪』函入り


 8月下旬、個人美術館フロムウィンズ(神奈川県南足柄市雨坪404)にて開かれている『企画展 没後20年 田島隆夫の彩墨画』に妻と行ってきました。
 今回が初公開となる「千字文」を含む30数点、と案内にありました。「千字文」ってナニ?
恥ずかしながら知りませんでした。調べてみたら、「千字文(せんじもん)」とは「中国六朝の梁の周興嗣が武帝の命により選した韻文」で、「『天地玄黄、宇宙洪荒』に始まり、『謂語助者、焉哉乎也』に終わる、天文・地理・政治・経済・社会・歴史・倫理などの森羅万象について述べた、4字1句250の短句で1千文字から成る」とのこと。漢字の初等教科書や習字の手本として流布したそうです。

 展示されていた「千字文」は『天』『地』『玄』『黄』『雨』の5点でした。250句の最初の4字と、フロムウィンズ・オーナーの窪田さんが「この字が好きなので選んできました」と言う『雨』。田島隆夫は絵も書も独学だったようですが、どの作品も衒いがないということを一番に感じます。

 いつもよりゆっくり見て、自分の手元に置きたいと思う作品はどれだろうと選んでいましたが、欲しい絵ばかりでなかなか決まりません。再度、一周して「しょうが 大暑」に決めました。いつか機会があったら手に入れて自宅に飾りたいなあ……と思いながら、挨拶して帰ろうと靴を履こうとした時、正面(出入口横)にどこにでもあるような畑の風景を描いたものが壁にかかっていました。それまで気が付きませんでした。

 「これも田島さんの作品ですか?」
 「そうですよ」

 このような作品は見たことがありませんでした。こんな風景も描いていたことに感激して、これを”一番欲しい絵”に変更しました。作品には田島隆夫のサインもなく、いつ描かれたものかもわからず、シミがたくさんありました。でも、この「風景」が一番。この人はたしか、子どもの頃、絵描きになるのが夢だった、ということをどこかで書いていなかったかな・・・。ふと、そんなことが浮かびました。

 『田島隆夫の織と繪』は、田島隆夫の七回忌にあわせてつくられたもの。「あとがき」で夫人の田島道子様がそのことについて書かれています。
表紙には田島隆夫が織った裂を使って装丁した、限定14部の美しい特装本だったようです。当「本日休館」所蔵の一冊はその後に刊行された普及版で、2002年10月10日再版発行、となっています。版元は湯川書房。京都の古書店にて手に入れたものです。

 1か月遅れましたが、本日休館・秋号お届けします。次回更新は2017年1月を予定しています。

藤田嗣治からレオナール・フジタへ



 宗教は心の祖国となりえるか? レオナール・フジタが日本人藤田嗣治であることを捨て、カトリックに改宗した背景にさまざまに思いをはせてみた。

 ポンピドゥー・センター傑作展のなかで、レオナール・フジタ作『画家の肖像』(1928年)は孤立感の漂う特異な存在に思えた。フジタ創出による乳白色の人肌、そして面相筆による線描が特質の『画家の肖像』は、彩色豊かな西欧の作家たちの絵画の中で、血縁も地縁も皆無の弧絶した存在の印象を持っていた。

藤田嗣治「画家の肖像」(1928年 油彩 仏ポンピドゥーセンター)

藤田嗣治「画家の肖像」(1928年 油彩 仏ポンピドゥーセンター蔵)

 展示されるほとんど作品は、シャガールにしてもピカソにしても、出自の地域は異なるにしても、作品にはある共同性の流れが通低するのを感じるのだった。しかし藤田の作品はすわり心地が悪く、他の作家たちとのあいだに親和感を感じることは出来なかった。

 ヨーロッパで日本人画家といえば、レオナール・フジタの名がまずは挙がるほどの有名人である。たしかにフジタによる乳白色の人肌と面相筆にかかる線描の繊細な世界は特異な存在で、西欧人が抱いているエキゾチシズムへの憧憬をくすぐるには十分な世界である。結果としてフジタはヨーロッパ美術史の中に位置を占める稀有な日本人画家になったが、それは点としての位置であり存在の共鳴力、波及力という面から見ると、断絶、孤立しているとしか思えない。受容のされかたは、ものめずらしい世界といったものに過ぎなかったのではないか。

 フジタはヨーロッパ美術史の風土に同化することを拒み、日本画の技術を駆使した乳白色の人肌、面相筆による浮世絵的な繊細な線描でパリ画壇の注目を集めることになった。パリの他の日本人画家たちが、その時代に活躍する西欧画家たちを師と仰ぎ、西欧世界に同化しようとする植民地的世界のベクトルが主流だったのに対し、一人反旗を翻し、自身が日本人であることの特質としたその具体的な姿が、乳白色の人肌であり面相筆であったのではないか。

 パリ画壇の西欧美術界に名をはせたフジタは祖国である日本に帰国するも、期待した賞賛、評価を受けることはなかった。逆に、彼を迎えたのは妬(ねた)み嫉(そね)みよる誹謗中傷ばかりであった。

『レオナール・フジタ-私のパリ、私のアトリエ」(ポーラ美術館・監修、東京美術/2011年3月発行)と、2013年4月~6月、静岡市美術館にて開催された『藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931』図録

左:『レオナール・フジタ-私のパリ、私のアトリエ』(ポーラ美術館・監修、東京美術;2011年), 右:2013年、静岡市美術館にて開催された「藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931」図録

 西欧絵画の技法とは異彩な、乳白色の人肌や面相筆でエコール・ド・パリの寵児となったフジタだったが、そのことによって逆に歴史の孤児となった。結果として祖国日本を追放されるように出奔せざるをえなかった彼はフランスに戻ったが、そこにかつてのエコール・ド・パリの楽園を見ることはできなかった。ヨーロッパ人でも日本人でもない祖国喪失者、ただのデラシネとしての自分を確認することとなったのではないだろうか。 『画家の肖像』を見ながら、死期を前にしてカソリックの洗礼を了承したフジタの、その心中を忖度した。デラシネの自らが帰るべき世界を求めたのではないか、と。

「祭りの日常化」-黒沢清と<岸辺の旅>



 「新幹線通勤」という言葉はどんな響きがするのだろう。ある事情により東京に住むことをせず、地方から東京へ通勤する。しかも、そのことを所属組織が容認し経費を負担してくれる。毎日の長時間通勤と引換えに週末の有意義な地方生活を満喫?、都会の汗だく押しくらの満員・立ち尽くし通勤ではなく、シートを倒して読書&睡眠のゆったり通勤?

 4月から静岡-東京間を、新幹線で毎日通勤することになった。既に4ヶ月が経つ。
 新幹線とは旅行や出張で利用する”非日常”的な存在であったが、毎朝眠い目をこすりながら、いつもの時間の、いつもの席で、その日をスタートさせるのが日常となっている。新幹線の車窓から見える富士山、沿線の街の風景、新幹線の揺れるタイミング・・・。ひとつ一つが毎日のものであり、汗だく押しくら通勤のそれとは、異質ではあるが変わらぬ”日常”となっている。

 大学時代、大学祭の事務局をやっていた。2年間程やっていたが、テーマは一貫して「祭りの日常化」であった。今思えば、何とも青い、机上の小理屈”を振りかざしたテーマであるが、当時はかっこいい言葉だと思っていた。

 <祭り>とは抑圧された日常を一時でも忘れ、解き放たれた刹那な思いの上に成り立つもの。豊作や大漁の祭りでも、天然の恵みへの感謝と同時に日々の生活の苦しみ・呪縛を忘れんがための別世界=非日常への逃避として成り立つのだ、と。だからこそ<祭り>を日常のものとし、日々の抑圧された生活から解き放たねばならない。「祭りの日常化」を大学祭が起点となって始めるのだ。こんなことを夜遅くまで真剣に議論していた”青い”時代が、懐かしくも、ほろ苦くもある。

 その大学祭事務局の仲間に自主制作映画を撮っていたTがいた。Tの計算されたカメラワークは一部の評論家にも高い評価を得ており、自主制作映画仲間のネットワークも持っていた。

映画監督黒沢清の写真

映画監督黒沢清 © Change Our World

 一度、Tの伝手で学生の自主制作映画上映会を開いた。6~7本位の映画が集まり、ライブ喫茶を貸し切り、開催した。その中にはのちに『アイコ、16歳』を撮る今関あきよしや『トウキョウソナタ』『彼岸の旅』の黒沢清がいた。皆学生で、その日の帰りの電車が無くなったため、私の下宿に黒沢清が泊まっていった(といっても、朝まで何人かで映画の話をしていたのだが)。当時立教大生だった彼は「蓮實重彦に教わりたくて立教に入った」と言っていた。

 映画は一般的にその存在自体が非日常的であるが、黒沢にとっては日常であり、生活である。自分の好きなものを日常に置くことができる彼を羨ましくも思う。
 だからと言う訳ではないが、失礼ながら黒沢清監督の商業作品は、一度も見ていなかった。湯本香樹実の小説『岸辺の旅」』を読んで、彼が映画化したことを知り、DVDを借りてきて観た。本当に失礼なのだが、カンヌ映画祭のある視点部門監督賞を受賞した作品であることさえも知らなかった。

 黒沢の『岸辺の旅』は、40年前に見た彼の自主映画のどっしりとした安定感や光と影のバランスの良さ、頼りがいのあるカメラワークを思い起こさせた。

 失踪し既に死んでいる夫と3年間彼を待ち続けた妻の物語である。ふたりは旅に出る。妻にとっては夫の死ぬまでの生きた過程を辿る旅であり、死んだ夫にとっては妻との真の別離への旅なのだ。旅の中で様々な人に出会い、ふたりは愛の強さを確認するが・・・。

 生きている者同士の思い、死んだ者同士の思いは、同じ地平の中で割り切れるのだろうが、生者と死者の互いの未練は揺れ動き、擦れ違う。死そのものも非日常であるが、死に寄り添う生もまた非日常である。生の中にある非日常は、時として死よりも息苦しく、切なく悲しい。想い続けることが非日常と繋がる道なら、それを断ち切り、前に進んだ方が甲斐があり、明るくもある。だがそれが出来ないでいる。今の生活が辛く味気なくとも、過去の生活が素晴らしかろうとも。

 人には忘れられない事がある。心の中にしっかりと刻んだ忘れられない人がいる。そんな気持ちと対峙して、人は忘れてしまうことにより立ち直り、未練を捨てることにより次へ踏み出せる。忘れることが出来ない人にとって未練は日常であり、前に進むことが非日常となる。忘れ去った人にとっては前に進むことが日常であり、未練は非常識となる。

 私にとって黒沢清が非日常である。それは私自身が映画から遠ざかっているせいであり、新幹線が日常なのは、それが毎日の生活そのものだからだ。
 今現在が楽しくて仕方ないわけではない。だが「昔、あの黒沢清が俺の下宿に泊まったことがあるんだぜぇ」などと自慢したりはしない。日常を日常の中で受け入れていかなければ、逃避としての非日常への思いに留まってしまう。辛いけど、忘れ去ること、背負い込まず振り捨てることが「祭りの日常化」なのかもしれない。

”休日は茶畑で” 60歳を目前にして・・・



 この本日休館サイトの片隅をお借りして「あとひと月余りで50歳になるので自分にとって記念の意味で引き受けることにしました」と記してから、早いもので今年の秋には10年が経過します。
 一方で緑茶製造はとうに10年を越えました。「自分のやれる範囲でお茶作りをやってみようと一念発起して始めた」のですが、会社員の傍らとはいえ機械にしても茶園にしても10年以上ほったらかしで、60歳過ぎてからよしやってみようかな・・・・・・では遅いと考え、”やるなら今でしょ!”という思いが自然と湧き上がってきたのは平成14年の秋でした。

茶畑の画像


 本日(7月9日土曜日)は朝からしっかりと雨が降って、予報でも夕方まで続くそうなので「大豆とトウモロコシの播種」は延期して、原稿を入力し始めたところです。

 14年目の緑茶製造を終えて振り返ってみると、結果は昨年比2割強の増産でした。茶園面積は去年と同じでしたから、あらためて増えた要因を考えてみました。

 気候の面では冬も比較的暖かいと感じる日が多く、寒害を受けることもない、近年稀に見る順調な年だったと思います。
 肥料の面では例年と同じ内容でしたが、以前は頑張って作っていた堆肥の代わりに、醗酵済みの米糠を入れてきた効果もあったのではないかと思います。冬に茶の木の下に白いカビが発生している写真を載せましたが、その菌が施した肥料を分解するお手伝いをしてくれているのではと、自分に都合のいい解釈をしています。

 堆肥作りは小屋まで建てて頑張っていたのですが、体力的にきつくなってきたところに、たまたまこの醗酵済みの米糠を無料で提供してくださる方に巡り合え、「土ごと醗酵」とは言えないかもしれないけれど、きっとそれに近い環境になっていくのでは・・・・・・と、以前にも紹介しました。

 午前中に収穫、午後製茶して1日で荒茶を製造する繰り返しを5日間しました。販売用の荒茶は仕上げる専門の業者に依頼し、できたものを袋詰めそしてシール貼りで商品にしています。
 去年まで袋詰めは休日か、会社の仕事を終えて帰宅後、夜間に茶工場でエージレスという脱酸素剤を入れて作業してきました。しかし、収量が増えた今年は販売用と贈答用を袋詰め専門の業者が車で5分程の所にあり、料金も自分が想像していた数字とピタリ合っていたので委託することにしました。
 自家消費用の荒茶は、青臭さを取り除くことと保存性を高めるために再度乾燥機で火入れをして、篩にかけて細かくしてからエージレスを入れて自分で袋詰めをしました。

 販売量はほぼ例年通りなので、今年売れ残ったら来年は自家消費用を製造せず、茶園面積も縮小して稼働日数も2日減らす方向で考えています。その第一歩が袋詰めの外注化でした。面積の縮小については母の実家から借りていた圃場1箇所を均し刈りして、6月1日にお返ししました。
 還暦を迎える今年で現在の職場も退社です。まだ楽隠居とは行きませんから、新たな就職先に移ることになります。その職場の状況によっては、来年は新茶を摘採しない圃場も出てくるかもしれません。細く長く、省力化して体を厭いながら、他の作物にも更にチャレンジしていけたら60歳以降も農業を楽しめるかな・・・・・・。

 緑茶栽培で得た自分なりのノウハウを起点に、農業の枝葉を広げて行くことで人生に潤いを得られたらと、いささか楽観的な思いに至ったところで、本日はこれにて休館!…?

マインド・リッチ 人生を変える新しい価値観

『マインド・リッチ 人生を変える新しい価値観』(玉川一郎・著;2011年10月発行:講談社)

『マインド・リッチ 人生を変える新しい価値観』(玉川一郎・著;2011年10月発行:講談社



 モハメド・アリが、プリンスが、永六輔が、大橋巨泉が昇天したが、わたしは「覚えテロ」「今に見テロ」と、路傍の石ころとともに、ひっそり、したたかに生きている。

 下天はユメさ。見よ、蟻を、蛾を、トンボを、かげろうを。角栄もヒトラーも要らん。この、面白可笑しくもない世を、いかに面白く生き、そして笑って死ねるかのか? That is the question.

 わたしは楽器は何も奏けぬ(口笛すら)が、ホラだけは吹ける。ヤッホー! あの丘も憂いの奥山もけふ越えて、浅きユメ見し、ジャガボコ、ジャガボコ、どですかでん

 歴史は鏡。新聞は毎日、歴史のページ。アナタもボクも歴史上の人物、宇宙の子。だから責任があるのよ。

 娑婆こそヘブン(天国)。煩悩も菩薩もナイ。缶コーヒーBOSSのオヤジもイイこと言っている。「この、ロクでもない素晴らしい世界にカンパイ!」

「~ジェイ マハ キ ジェイ」はブラジル・アマゾン原住民の呪文。いわく「宇宙の本質は歓喜である」。その気持ちになるコツ・秘訣は? 『アリがトウ』と『カがミ』。
心の鏡をみがけば、我が消えて、カミとなり、Mind Rich になれる。

「猫は昨日の猫ならず」 ( 『セザンヌの塗り残し』 より )

小泉清・作「猫」

小泉清・作「猫」(1947年 油彩 37.9×45.7)

・・・・・・・・・
 こんなことがあった。あるとき、たぶん外房あたりの海の、どこかの断崖を描いたと思われる二十号くらいの油絵を預かって画廊に掛けていたが、偶然画面に手が触れると、一ヵ所、絵具が軟らかくてブヨブヨしている。小泉清が死んで五年も経つというのに、まだ絵具が乾かないなんてことがあり得るだろうか。折柄お盆で、小泉清があの世から帰ってきているのではないかと、思わず四辺を見廻したりしたが、それは、チューブからいきなり画面へひねり出したイエローオーカーの、細い棒状の絵具の外側が先に皮のような具合に固まり、内部が空気に触れないために、いつまでも固まらずにいたのだった。
 それにしても、そういう小泉清の色には小泉独得の美しさがある。彼の好んで使ったプルシャンブルーの、あの澄んで淋しい青を、彼以外に私は知らない。あの強烈な赤でさえも不思議に淋しいのだ。色調を整えている隙などないとでも言うように、生の絵具をぶっつけに持って行く彼の色を見ると、私は「色は人生の狂熱である」と言ったゴッホの言葉を思い出す。しかし、小泉清の狂熱は燃え上がり、燃え拡がらない。あの異常なまでの盛上げのために、却って内へ内へと押し籠められて行くかのようだ。一見激情の奔流のように見えながら、彼の画面にはどこかに沈鬱の気配が漾い、孤独と寂寞が影を落している。何が小泉清の裡にはあったのか。
 人はよく小泉清の色に、半分日本人ではなかった彼の体質を言う。父親は小泉八雲、即ちラフカディオ・ハーンで、ギリシャ人とイギリス人の混血のその父親と、日本人の母親との間に生まれた四人兄妹の三男が清である。もっとも、彼はそれを言うのを嫌った。中学では英語の出来がよくなかったという笑い話さえある。にも拘らず、どうしようもなく日本人ではないという面が彼にはあったらしい。
・・・・・・
 死ぬまで、売るための、売れるような絵がどうしても描けなかったというのも、その妥協のなさのさせる業だったろう。猫は好きだったというが、好きな猫を描いてもこの有様だ。とはいえ、小泉清だけでなく、そういう絵かきがいまはいなくなった。猫は昨日の猫ならず。
(新潮社・刊気まぐれ美術館シリーズ(全6冊セット)所収)

[Editor`s Note]

 『藝術新潮』の「気まぐれ美術館」の連載で、村山槐多を2回にわたって論じた次に、96本目として書いたのが本文「猫は昨日の猫にあらず」だった。
 洲之内徹が30年暮らす自宅アパートの周辺で以前は多く見かけた猫がいなくなったというエピソードから起こし、菱田春草の作と伝えられる黒猫の絵(「屋根の上の猫」)と春草の話題を承に記しながら、「黒猫のことだけでなく、白猫のことも・・・」と小泉清に転じ、生前会うことのなかったこの画家の「狂熱」を感じさせる色遣いの本質を、洲之内らしい感性で照射する。

 小泉清は1900(明治33)年12月、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の三男として東京の市ヶ谷富久町に生まれる。1919(大正8)年4月、東京美術学校(美校、現・東京芸術大学)西洋画科予備科へ入学。同年9月には本科1年に進級。同期生には岡鹿之助がいた。だが1921(大正10)年、肺に異状があり入院、美校を中退。
1923(大正12)年に針シヅと結婚、翌年長男、5年後には長女誕生。このころは絵筆をとることなく、趣味のヴァイオリンで映画館の楽士として働いていた。1934(昭和9)年、中野区鷺宮3丁目に新居を築く。生活のためビリヤード場を併設、翌年、画室を増設。このころより独学で洋画を学び、創作することが多くなったが発表はしなかった。
 1946(昭和21)年3月、里見勝蔵の勧めにより読売新聞社主催第1回新興日本美術展に初めて出品、読売賞を受ける。翌年10月、銀座シバタギャラリーで初の個展。さらに翌1948(昭和23)年には、梅原龍三郎の推薦により第2回一燈美術賞を受賞。1954(昭和29)年、国画会会員として迎えられ、初めて美術団体に所属する。しかし、1961(昭和36)年12月、妻シヅが急逝した3カ月後、後を追うように自らの命を絶つ。

 たとえば「自画像」の、チューブから絞り出した絵具をそのまま塗り重ねていくような、絵具の盛上げを特徴とする絵。洲之内徹は生前の小泉清と面識はなかったが、小泉の自死後に長男・閏の妻から「猫」の絵を購入する。しかし、現代画廊に掛けても買い手はつかず、スタッフの女性たちからは気味が悪いから置かないでくれと抗議を受ける。購入の理由について洲之内はこう述べている。
 -「この絵が小泉清らしい美しさを持った絵だと思ったからにはちがいないが、同時に、この白猫に漂う一種の鬼気の如きものに、伝え聞く小泉清という人を想像したということもあったかもしれない。」

 洲之内コレクション(宮城県美術館所蔵)には、この「猫」も「自画像」も入っている。

没後20年 田島隆夫の彩墨画展

田島隆夫・作「ざる」(本日休館コレクションより)画像

田島隆夫・作「ざる」(本日休館コレクションより)

 遅くなりましたが、本日休館第36号をお届けします。今回は<本日休館コレクション★この1冊>はお休みさせていただきます。

 8月上旬、田島道子様より企画展「没後20年 田島隆夫の彩墨画」のご案内葉書が届きました。会期・会場など、そのまま下記に書き写させていただきます。

去って20年、呼吸し続ける彩墨画の世界、初公開となる千字文を含む30数点で展観します。
会 期  2016年8月11日(木)~2017年1月22日(日)
※年末年始の休館  12月22日~1月4日
会 場  フロム・ウインズ(神奈川県南足柄市雨坪404)
開館日  木曜日~日曜日
午前10時~午後4時

 とても楽しみな展覧会です。なんとか8月中に見に行き、次回その様子など報告したいと考えています。
 フロム・ウインズは小田原駅から伊豆急箱根鉄道大雄山線で終点・大雄山下車、徒歩15分ほどの個人美術館です。興味のある方は是非お出掛けください。

 次回更新は10月を予定しています。変化スピードの速いネット上でもっとも更新頻度の遅い当サイトですが、まもなく10年目に入ります。今後ともよろしくお願い申し上げます。(館主敬白)

”休日は茶畑で” 茶園の石がバッタリ倒れて

茶畑イメージ画像


 わが茶園には、2月になってカキ殻の成分が入った「有機苦土石灰」を混ぜた配合肥料を撒きました。
あと30分位で今日の作業は終了と思っていたら、石垣の大き目の石がバッタリと倒れています。ここは前回の写真の場所で、斜面になっています。

 見ると、石垣の上に生えている茶樹の根が露出して、このままでは樹も枯れてしまうだろうと思われます。また石垣も崩れたところから左右に広がってしまいそうです。
 猪が崩すこともあるし、以前に地震で崩れたこともありますが、今回の場合は徐々に傾いたところへ強めに降った雨で起きたのだと思います。試しに石の下に両手を入れて起こそうとしてみましたが、案の定ビクともしません。しかたないので、今日は残りの茶畑に肥料を撒いて終わりにすることにしたのが、2月28日の日曜日のことでした。

 翌週の3月6日に、ひとりで何とか復旧させなければと無い知恵を絞って、軽トラックのジャッキとチルホール(ワイヤと歯車を組み合わせた手動ウィンチ)、そして長さ60㎝程のバールと鍬類を準備して現場へ登って行きました。

 まずは一番大きな石を元の状態に戻すために小石や土を取り除き、空きスペースを確保します。ジャッキを石の下にもぐらせて20㎝位押し上げて、石の宛がいを左右で繰り返すと、何とか立たせることができました。これをさらにバックさせてずらさないと元の位置にならないし、歩いて通ることもできません。

 ここでチルホールの出番です。石にワイヤーを縦に巻き付け、チルホールを固定するために別のワイヤーを上の通りの茶樹の根元に巻き付けて歯車を回すバーを前後に動かします。1本の茶樹では負荷が大きいと思い3本の根元を一回りして固定しました。
それから徐々にバックして、やっと元の位置へ移動できましたが、既に作業を開始して3時間以上経過していました。もう12時です。昼食を食べに一旦山を下りました。

 昼食を終えると、天気予報では西から天気が崩れているとのこと。外に出てみると空は雲が広がり、雨が降ってくるのは時間の問題かなと感じたので、急いで続きの作業に取り掛かりました。
 石に巻き付けたワイヤーをジャッキで浮かせて外し、石の裏に小石をなるべく多く入れ、左右の空いたスペースに石を組んで積み、最後にどかしておいた土を掛けて上を歩いてみました。既に雨が降り始めています。道具を片付け、何とか作業終了です。

 後で倒れた石の大きさを測ってみたら、幅約60㎝・高さ約40㎝・厚さ約30㎝でした。文字にするとたったこれだけのことで、今回はピンポイント的な崩れなのでひとりでできましたが、もう少し広がったケースだったらそうはいきません。作業中、知らず知らずのうちに力が入り、石にぶつけていたのでしょうか、その夜は久しぶりにからだのあちらこちらが痛くなりました。

 そんなことがあってから、もう1カ月以上月日が経ちました。新茶の収穫も、もうまもなくです。

倒れてきた石を元の位置に戻した状態の写真

写真1 倒れてきた石を元の位置に戻した。

元通り歩けるようになった茶園の写真

写真2 元通り歩けるようになった。

 

絵のなかの散歩<関根正二「魚」>より

関根正二の作品「魚」の画像(新潮社『絵の中の散歩』口絵より)

関根正二「魚」(新潮社『絵の中の散歩』口絵より)


・・・・・・・・・
 電車に乗ると、私はすぐに包みを解いた。
「あ、こら関根だ、うんと若い頃だな」
 絵を手にとって一目見るなり、伊東さんはそう言った。あんまり簡単に断定されて、却って私は拍子抜けがした。何時頃の作品か、重ねて私は訊いてみた。
「さあ、十五か六くらいだろう、下手な絵だよ、どうだい、このサインなんかの子供臭いこと・・・・・・」
 それっきり、絵を傍の座席の上にほうり出しておいて、伊東さんは関根正二の昔話をはじめた。
 そのときの伊東さんの話はたいそう面白くて、後で書きとめておかねばならないと思いながら、不精者の私はそのままにしているうちに大方忘れてしまったが、関根と上野山清貢との交渉の話は特別で、これだけは憶えている。
 関根は上野山清貢を尊敬して、始終上野山の家に出入りしていたが、上野山の当時の細君は女流作家の素木しづで、結核を患っていた。ところで、関根は、天才は肺病でなければならないと考えていて、なんとかして自分も肺病に罹ろうと思い、上野山夫人の使った茶碗をわざと洗わずにそれで飯を食ったりして、苦心惨胆の末、ついに目的を達した、というのである。
 こういう話は普通、作家の年譜などには入っていないし、入れようもないだろうが、案外、歴史の真相というものは、こういうものなのではないだろうか。いずれにしても、天才といい、肺病といい、なにか大正という時代の体臭を感じさせるような話である。
 年譜といえば、私の知る限りの関根正二の年譜や評伝の中には上野山清貢の名前が出てこないのであるが、これはなぜだろう。後になって読んだのだが、広津和郎氏の「年月のあしおと」の中にも、上野山清貢と関根正二の交渉を窺わせる記載がある。広津さんが本郷の八重山館にいたころ、下宿の向いに久米正雄が、こちらは一戸建ての家を構えて住んでいたが、当時、どちらも油絵をかいていた。久米正雄が二科に出品するつもりの絵をかいているところへ関根が訪ねてきて、その絵を見るなり、「あ、ちがう、ちがう」と言ったのを、その場に居合せた上野山清貢がまた広津さんに話して、「これ以上辛辣な批評はないよ」と言うのである。上野山はまた、関根は帝大病院で蓄膿症の手術をしてもらったら、急にいままで見えなかったガランスの色が見えるようになった、と広津さんは言っている。
 このガランスは、ひょっとすると広津さんの記憶ちがいで、上野山はヴァーミリオンとか赤とか言ったのを、同じ赤なのでガランスと記憶してしまわれたのではないだろうか。さもなければ、長年の間に、広津さんの記憶の中で関根と槐多がごっちゃになってしまったのではないだろうか。専門家の上野山がヴァーミリオンとガランスをごっちゃにするとは考えられないからであるが、ともあれ、関根のあのヴァーミリオンも、初期の彼のパレットにはなかったのだと考えてみることもできる。
・・・・・・・・・
※『絵の中の散歩』(1973年初版・刊)から抜粋
(新潮社・刊気まぐれ美術館シリーズ(全6冊セット)所収)

[Editor`s Note]

 関根正二は1899(明治32)年、福島県白河市生れ。9歳のときに一家とともに東京・深川に移り住む。小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で印刷会社に勤め、このころからほぼ独学で絵を描きはじめる。

 1915年(大正4)年、16歳の作品『死を思ふ日』が二科展に初入選。同じ年の院展で受賞した村山槐多とともに「強烈な個性で世間を瞠目させ」る。関根のヴァーミリオン(朱)、槐多のガランス(茜)と違いはあるが、同時期に画壇に登場した夭折の天才画家二人が、それぞれの狂熱をカンバスに託した色が同じく赤であったことはよく知られている。
 その後、関根19歳の時に第5回二科展に出品した『信仰の悲しみ』が樗牛賞に選ばれるが、1919(大正8)年、前年に受けた蓄膿症手術の経過が悪かったうえに、風邪をこじらせて肺炎に罹り、20歳の若さで逝去した。

 ある日曜日の午後、洲之内徹は通りがかりの古道具屋の店先で、「正二」とサインのある作品『魚』を見つけ、真作かどうか迷いながらも購入。はじめに美術評論家・柳亮(1903~1978)にこの絵を持っていくが、「ちがうと思うね、関根の青はプルシャン・ブルーだが、これはウルトラマリンだよ・・・・」と否定される。次に二科の頭領格で関根の面倒をよくみていた画家・有島生馬(1882~1974)を訪ねるが、「ずっと若いときのことはぼくにはわからない。そうだ、伊東深水君に聞いてみたまえ……」と電話で紹介してもらう。
 雨風の中、絵を抱えて北鎌倉の伊東邸へ向かった洲之内は山道で迷ってしまう。そこに折しも東京へ向うためにやって来た伊東深水に遭遇、絵は電車の中で見ると言われて同乗したくだりが上記引用部からである。

 それにしても、あるはずのない場所から夭折の天才画家の、しかも知られざる作品を見つけ出してきた洲之内徹の眼力というか、希代の絵を見る眼については、すでに何人もが語り伝えているが、この一文のエピソードを介してもつくづく不思議な力をもった眼であると思う。(海)

二つの道 東山魁夷と靉光と


 
 東山魁夷の『道』、『秋翳』を前にしたとき、唐突に中原中也ことが思いだされた。いや、唐突というのは正しくはない。

 東山魁夷の絵を直接眼にするのは初めての体験だった。日本画の巨匠といった美術史的な知識、そして図録で彼の作品を教科書的に目にしたことはあったけれど、作品そのものを眼前にすることはなかった。遠因は、日本画そのものに具体的な検証のないまま保守的な世界であるという、大雑把な先入見を持っていたことがあるのではないかと思う。時代の思潮にそったさまざまな試行錯誤の痕跡が顕著に理解できる油彩作品に、関心が向かっていた時期が長かったからではないか。私の絵画に対する関心は、偏頗な、その程度のものだったといえる。

 今回の東山魁夷の作品との邂逅も、そもそもは油彩画家である靉光(あいみつ)の作品を見ることを目的にしていてのことだった。

靉光「眼のある風景」(東京国立近代美術館所蔵)の画像

靉光「眼のある風景」 東京国立近代美術館所蔵

 実は靉光の作品も、それまでは図録、画集でしか目にしていなかったことは東山魁夷と同じではあったが、知識として関心の度合いが強かった。そして、やっと絵を直接に見ることのできる機会にめぐり合ったのだ。

 靉光は『自画像』と『眼のある風景』の二点が強烈に印象的だった。まさしく近代的な自我が表出されている絵だと感じた。どちらも、絵を前にして息苦しい、心理的な圧迫感、対立感を体感した。画家の抱えている精神的な葛藤が、見る人間に伝染してくるような体験だった。絵を前にして、見る人間が必然的にいま体感している内容を、たとえば画家の意図を忖度するなど、言葉で紡ぎだすことを強く迫られているように思え、重苦しい時間だった。

東山魁夷「道」(東京国立近代美術館所蔵)の画像

東山魁夷「道」 東京国立近代美術館所蔵

 靉光から放たれた重苦しい時間を逃れるように場所を移すと、そこに東山魁夷の『道』があった。そして、重苦しさから救われる思いを感じた。画家が抱える葛藤の息苦しさや対立感といった世界から程遠い、静謐な世界がそこにあった。

 ただただ泰然自若として絵ががそこにある、といった印象である。しかも絵の世界が外にあるのではなく、見ていると、相互浸潤とでもいえる、絵の世界に自分が染まっていくような内的体験がやってきた。

 靉光の作品を目にしたときに体験した自我の葛藤する息苦しさ、圧迫感は、もう時期は記憶の外になってしまったが、詩人の中村稔が死の床にあった中原中也の残した日記か手紙を発掘し、その内容に言及した新聞掲載の文章を思い起こされた。確か、近代日本人としての反省として、自我の過剰な強さを指摘したというものであった。

 中原中也の詩をはじめて読んだのは高校生になってからだが、偶然に、年の離れた従兄弟の書棚にあった詩集の頁を開いたときに、有名な詩句「汚れちまった悲しみに・・・」を知った。そのときの素直な感想は、言葉の口当たり、心当たりのよさは味わいながらも、過剰な自己修飾に嫌悪感を覚えたことが記憶に残っている。そのために、以来、中原中也の詩から遠ざかってしまったように思う。ふりかえってみると、自分のなかに過剰な自己修飾を、肥大した自我を見ていたからではないかと思う。

 靉光の『自画像』と『眼のある風景』を前にして体験したのは、作品にある描線、彩色、構図などひとつひとつに感じるたびに、おのおの意味づけを自問させられるような重苦しさ、息苦しさに襲われ、見る側にも自らの強すぎる自我の存在を発見させられることだった。だから東山魁夷の絵を目にしたときに、作品の絵画構成にある意味を問うこともなく素直に、まずは直截に、その作品世界を受容することが出来たことに驚いた。
 それは思いもよらない甘露な時間の体験だった。考えることなく、問うこともなく、作品世界に染められるという受身の立場に身をおいたからこそではないかと思う。

 あえてその体験について理屈をこねるとすれば、靉光の絵と東山魁夷の絵との、おのおのの作品の構造が、また自我のありかたのベクトルが異なっていることに由来するのではないかと思う。けれどそれ以上に、東山魁夷の作品で体験した時間は、私にとっては希少価値のものであった。以前に、速水御舟の作品を見たときに体験した時間の中身と似ているようにも思える。

 今回の東山魁夷の体験といい、速水御舟のときといい、それが食べず嫌いのせいでこれまで理由もなく、というより進んで縁をむすぶことのなかった日本画特有の構造なのか、それとも日本画をみる機会が少なかったためなのか、未だよく了解できないでいる。