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カラスの赤ちゃん、なぜ泣くの?

イメージ写真・高架下の神社


古い人間ほど新しいものを欲しがるものでございます。が、どこに新しいものがござんしょう? オーイ、老い! 津波のコワサはわかったが、もっとコワイものがある。寄るトシ波。オイル(老いる)ショックを越えて、われら後期(香貴)高齢(高麗)者は、いかんせん。絶望出来るのは、天才だけで(シャカ・カフカ)、われら凡夫はスグ、望みなきにしもあらずと思ってしまう。

ところで、ビョーキは悪だろうか? ボクは近ごろ「ビョーキするのも才能」で、イキるちからが凄いと思うようになった(子規)。漱石にみる「悩むちから」、性格・体質の弱点・短所も「個性」ですよ。ボクは半難聴だが、自分への悪口は聞こえぬから長生きする?また、歯も弱い(半入れ歯)から、食べ過ぎることもなく、肥らずハラ平ら。ポケットにはいつも100円~500円位しかないが、贅沢できないというゼイタクを味わっている。

コケコッコのおばさんの赤いおべべが欲しいと、カーカーと泣くのネ。
トシ取って頼れるものなら、イワシの頭や大根のしっぽも、ワラにもすがるが、ZC、般若心経読んでもさっぱりよくわからぬが、アナタは穴多、あなさやけ、あなかしこ、上6ツ、下3ツ、計9ツの穴をみがきましょう(研究の究は九ツの穴)よ。山のあなたに幸いはなく、身近にあり-カラダは空(から)だ。アタマもむなしうして(カラっぽ)、カラダのコリを取り去りゆるんで、キミとボクと自分と自然(花鳥・山水)とのカベ(境)をとって一体感持つのをサトリ(差取り)と云うらしいが、コケコッコのおばさんの、赤いおくつが欲しいと、カーカーと泣くのネ。
泣きたいならお泣きなさい。“涙の数ほど元気になれる”ってホント。

笑いなさい。「笑う」のと「吐く」のは同じ生理から来る。かの美輪明宏もムシャクシャしたら、ありったけの悪口雑言を吐いてストレス‐ゼロにしていると云う。死もガンも、こわいと思うからこわいのよ(長谷川町子「サザエさん」)。ゆーれいの「正体」見たり、枯れ尾花。

かの名僧・仙涯は死期に及んで「死にとうナイ」と弟子たちの前でわめいたらしいが。 山岡鉄舟はカベに寄りかかって、落語家・円朝に一席語れと所望したそうだ。映画にもでたアフリカ人のブッシュマンは、自分のトーモロコシ畑の入り口あたり、誰にも知られずにひっそりと、野垂れ死に。大文豪トルストイは、カミさんと意見が合わず家出して、近くの駅のベンチに横たわったものの、引き戻されて……。
人間、至る所に青山あり、タタミの上で家族に看取られるばかりじゃない。

いま「TPP」問題が騒がれているが、ボクに云わせてもらうなら、経済再生とか日本を取り戻すって、昔の自民の古い体質が見え見え。それより、政府がナニをしてくれるかとアテにせず、ボクら一人一人が、

T……Thanks(感謝の心)
P……Peace of Mind(心の穏やかさ=平安)
P……Pocket にひとつのまんじゅうあれば、半分を他人に分与(シェアー)する。

ナンチャッて、エラそうな?

ギロチン・ギロチン、しゅるしゅるしゅっ(太宰治)、前方後円墳墓って、二等兵だな(山下清) 、どーもすいません(林家三平)。

「宇野マサシ-西成、飛田界隈-」

 平成24年11月11日(日)、石笑辛一氏と有楽町で待ち合わせ。西銀座で昼食を済ませ、「宇野マサシ-西成、飛田界隈-」を開催している京橋のギャラリー『アート・紀元』へ。歩きながら、案内状にある地図を見て、腹ごなしにはちょうどいい距離だろうと思いました。
 ちょっと迷いましたが、無事、ギャラリー『アート・紀元』に“とうちゃこ~”。
入口横に迫力ある大きな絵が……「太子のドヤ」とありました。中は、こじんまりした様子のギャラリーでしたが、ガラス越しに宇野先生と奥様の小畑延子さんがいるのがわかり、急に緊張感が高まりました。
 一通り拝見してから、石笑さんは「太子の家」と題された作品の前から動かず、しばらく向きあっていました。「この絵が気に入りましたか?」「うん。赤い色の使い方が独特だね」
私はいつものように、一番欲しい絵を探していました。
「太子風景」0号キャンパス
「日本の風景じゃないみたいだね」「そうかなあー」と石笑さん。先生には申し訳ありませんがそう思いました。これが一番欲しい絵でした。180,000円『売約済み』となっていましたが……。

 ギャラリーでお茶をいただきました。
 宇野先生の新宿美術研究所の同窓生・刑部さんを紹介されました。刑部さんのお父さんは有名な画家・刑部人(おさかべ じん)、奥様は重森三玲のお孫さん、と聞いてびっくり。
またギャラリーでは宇野先生による「西成の記」というフォトエッセイ集が売られていましたので、早速買い求め、先生にサインをお願いしました。
 ギャラリー前の案内看板を前にして、石笑さんと二人で並んだところを、先生に紹介された『アート・紀元』の伊藤社長に写真を撮っていただきました。伊藤社長に「絵もどんどん撮っていいですよ」と言っていただきましたが、宇野先生がいるギャラリーのなかで、絵に向けてシャッターを押す勇気はありませんでした。

 毎日、とても忙しい日々を過ごしている勤め人、またリニューアルするのも大変、ということなど、いろいろ事情が重なり、今回の「本日休館」を“秋冬合併号”といたしました。あたらしい「本日休館」はいかがでしょうか?
 今後ともよろしくお願いします。では、また。

宇野マサシ-西成、飛田界隈-

『アート・紀元』前の案内

宇野マサシ「西成の記」

宇野マサシ「西成の記」(フォト・エッセイ)

「続山荘記」(『気まぐれ美術館』)より

…………
佐藤哲三の作品と向きあうと、私は、いつも、他の絵には感じない、ある特別なものを感じる。なんとなく客観的になれないのだ。しかも、その感じが作品のほうにあるのか、見る私のほうにあるのか、それが私にはよく判らない。いまも私は、田部さんと話しながら横を向いたり、話の途中で座布団を立って絵の正面に行ったりしながら、そのことを考え続けているのだった。
その感じが私のほうにあるというのは、それは佐藤の絵が、いま言ったように、運命的とでも言えるような係わりあい方で私に係わりあっているからで、いわば、あるプライバシーが、私と佐藤の絵との間に成り立っている。佐藤の絵の前に立つと、例えば大勢の他人の中で肉親を見かけるような感じが、私にはあるのである。それとも、自分が抱いたことのある女を人中で見る感じと言ってもいい。
こういうことでもある。私が佐藤の遺作を探しに最初に新潟へ来たのが六年前になるが、あのとき、私は蒲原平野のまん中を通ってこの新発田の町へ来ていながら、そして、その後引続いて何日もこの近辺を、作品を探して車で走り歩いていながら、現実の蒲原平野よりも、むしろ佐藤哲三の絵の中の蒲原平野を見ていたのだった。実際、あれは九月の半ば頃で、私の初めて見る蒲原平野は秋晴れの明るい陽射しの中で稲刈りの最中だったが、私の心の中には、既に、まだ見たこともない、みぞれの降る頃の冷たい空と、びしょびしょに濡れた暗い野面のイメージが棲みついていた。それというのも佐藤の、あの「みぞれ」のせいなのだ。以来、いまでも、私の眼には、蒲原平野は、常に佐藤哲三の蒲原平野を下敷きにして映し出されている。そもそも佐藤哲三があんなに愛した蒲原平野でなかったら、私もこれほど心を惹かれることはなかったのではないか。私は私だけで、ほんとうにこの蒲原平野が好きなのだろうか、そう思って、ふと不安にさえなることがある。私と佐藤のプライバシーの中身は女ではなく、蒲原平野であるのかもしれない。(新潮社・刊気まぐれ美術館所収)

**「芸術新潮」1974年12月号に掲載された文章です。当時、新潟県新発田市の「画廊 たべ」にて開催された『佐藤哲三遺作展』のことが書かれています。(海野・補記)

佐藤哲三展

佐藤哲三展の図録

佐藤哲三展

写真は1995年2月10日~3月26日、新潟県立近代美術館にて開催された『佐藤哲三展』の図録です。文中の「みぞれ」という作品は折込で紹介されています。

篠山紀信の写真には浄土を感じる

 「篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN」は壮観だった。美術館での作品展は初めての出来事であるそうだ。

 まずはその規模に驚かされた。一般にギャラリーで開催される写真展に展示される写真のサイズと桁が違った。サイズの詳細は不明だが、畳を何枚も敷き詰めたサイズに拡大された作品も何点か壁面を占めていた。もはや写真という一般概念を超越している印象である。展示形態そのものに、篠山紀信の写真、写真展に対する態度が表出されていると思った。

 「篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN」の写真を眺めながら、親鸞の往相、還相、計らいといった言葉が想起された。昨年末に見た写真展「ATOKATA」で東北の被災地を撮影した写真を目にして、流布されている報道写真や他の写真家たちの写真と較べ、たとえば作品に被災した人々の姿が写りこんでいないことなど、篠山紀信の特異な写真家としての立位置を感じていたことが下地にあったせいかもしれない。

 被災地の惨状をまえにした篠山紀信の態度に、また態度を支える社会、自然、写真への認識に魅了された。被災した人々の生活を撮影することが第一義的に考えることが一般的な感性、認識である。だが彼は被災した人々の姿を写り込ませなかった。そして写真展後に出版された写真集では、被災地の人々を肖像写真として撮影している。今回の写真展にも被災した人々の肖像写真がモノクロ写真で展示されていた。彼らの生活風景が背景に写し込まれていないことが目をひく。あくまで肖像写真である。肖像写真には老人も少年も混在している。そして凄いと衝撃受けたのは、被災という事実の受容の仕方というか、受け止め方が老人と少年とでは異なるという事実が、被写体の表情や姿勢に読み取れることだった。老人の表情には、生活を破壊された被災者でありながら、人を魅了する微笑さえ表情に読み取れる。そして少年の表情はあくまで事態を受け止めきれない当惑そのものを表出していた。

 写真展「ATOKATA」の案内状に記された篠山紀信の言葉は彼の時代へ対する立位置を鮮明に告白していると思った。めずらしく写真ではなく言葉で表白している。それは次ぎの言葉である。

「あとかた
2011年3月11日14時46分。自然は、圧倒的なエネルギーによって自らを破壊した。わたしたちは、かつてこの様な有り様を目にした事は無かった。初めて見る光景、一瞬の内に起こる生と死の体験。人間が生きるという事が、なんと不条理なことであるかを思い知らされた瞬間。自然による新しい自然の創造。それは神の悪戯でも凄惨な地獄でもなく、静謐で尊く、荘厳な光景であった。僕は自然の力に畏怖し、畏敬をもって凝視するしかなかった」

 ここに表白されている篠山紀信の姿勢は、もちろん自然災害にかぎらず、社会的出来事に対しても踏襲されているのではないかと思われる。

 今回の写真展で役者の肖像を撮影した作品は大きな位置を占めていたが、そのなかでも満面笑みをたたえた渥美清の写真には、展覧会に冠せられている「写真力」という言葉そのものが露出されていて、刺激的だった。渥美清の肖像写真の前に立つと、満面笑みを浮かべる顔の中に、人を怯えさせるような眼光があった。笑みの中で、彼の目は違和感を醸成していた。目の光が無機質な感情を消去された光だった。普段、画面で目にする寅次郎の姿からは見過ごされる不気味な存在であった。日々の日常生活ではめぐりあえない光を湛える目である。もし本当の渥美清という存在を考えることが出来るなら、その暗喩であるかも知れない。怖いというのが第一義的に感受された印象だった。

 以前に一度、同じような体験をしたことを思い出した。それは先代の林家三平師匠と対面したときのことである。言葉を交わしながら師匠は満面に笑顔をたたえていたが、師匠の目は感情がまったくうせた無機質な光を放つ硝子玉のようだった。そのときも冷たい怯えに似た感情が背筋を走ったことを記憶している。永くそのときの体験はなんだったのだろうかと訝しく内省する機会を持っていたが。

 会場で同じような衝撃を感じた写真の一枚に坂東玉三郎の「助六由縁江戸桜」揚巻の衣装を纏った肖像写真がある。会場には歌舞伎役者たちの見得を切ったクローズアップ写真も多数展示されていたが、絢爛豪奢な衣装をまとっただけの立姿の坂東玉三郎の姿に、迫力を感じた。動ではなく、静謐を湛える迫力とでもいうか。遠くを見やる表情だけが趣向ではあるが、彼の透徹し凛とした意志力が目力に憑依し、見るものを圧倒していた。
目は口ほどに物を言う、という古色蒼然とした俚諺があるが、渥美清、坂東玉三郎といった人たちが卓越した芸能人でありつづける秘密が計らずも目力として写真に露出されている瞬間だったのではないか。
 渥美清や坂東玉三郎たちの芸能人としての凄さが彼らの目に計らずも象徴されているように、彼らの凄さの本質を写真に定着させた篠山紀信の写真家として写心力の凄さがこの計らいのなさに窺い知ることができるように思えた。

 数少ない写真についての言及の中で、篠山紀信は71年にブラジルのリオのカーニバルを撮影した『オレレ・オララ』が転換点であると表白している。写真への認識が彼の中でどのように転換したのか、どのような体験が契機だったのか、詳細は不明である。ただ今回、この転換を具体的に写真を素材にして体験する機会が持てた。

 

60年代の篠山紀信写真集『THE SIXTIES by KISHIN』

『Death Valley』はじめ篠山紀信の60年代の作品はパイインターナショナル刊の『THE SIXTIES by KISHIN』で観ることができる。

 篠山紀信の60年代末に出版され傑作との賞賛を浴びた写真集『Death Valley(死の谷)』はしばしば見る機会があった。そして被写体をねじ伏せようと写真美学の粋を極め疾走する作家意識を強烈に感じていた。しかし79年に出版された少女たちのヌードを被写体とした『激写・135人の女ともだち』では篠山紀信の気配は写真から消滅していた。写真美学の粋を極め疾走する作家の姿は後景に退き、写真に写り込んではいない。極端な表現を使えば、素人写真とでもいえる写真である。それでもそれまでの写真史のヌード写真とは歴然と次元を画する作品にしあがっていた。写真家が自己滅却した結果、被写体である少女たちが露出してきたといえる。少女たちも輝いているが、篠山紀信の写真も凄い。その極が、宮沢りえを被写体とした『Santa Fe』である。写真集『Death Valley』と比較するとき、鮮明に、写真家篠山紀信の立位置が百八十度転換していることが理解できる。
 『Death Valley(死の谷)』では主役は写真家篠山紀信である。しかし『激写・135人の女ともだち』や『Santa Fe』では主役の座は宮沢りえや135人の女ともだちに譲り、篠山紀信は黒子に徹しているといえる。しかしにもかかわらず、写真はまぎれもなく篠山紀信の写真であることが凄い。

 昨年末、3.11大震災の被災地を撮影した『ATOKATA』に接し、時代の中で被写体と向きあう写真家篠山紀信の立位置に関心を抱いてきた。「ATOKATA」展に寄せた彼の言葉にも、衝撃を受けた。そのような衝撃を与える写真の背後に、何があるのか。人間、自然に対するどのような認識をもっているのか。そのようなことを考える中で、親鸞の往相、還相、計らいといった言葉が想起されたのだった。
 今回写真展を見て、写真家篠山紀信の写真による思考の一端を垣間見ることができたような気がする。
 篠山紀信の写真は何を被写体とするかにかかわらず、健康的である。まるで浄土を思わせる雰囲気が漂っている。

疲れを知らない子供のように

人間も動物。生きものなのに、それを忘れがち。頭脳が発達しすぎ、肉体の方がついてゆけない事態が来ている。文明の発達は、唯脳化・都市化であり、ますます肉体という小自然にひずみが顕在化-ガンとうつ・自殺・若年性認知症が増える一方である。
ヒトは二本足で立ち、自由になった手で道具を作り、食糧を得、適応力を伸ばして来たが、ピシッと永く立てない子や若者が、腰痛・ヒザ痛に悩むお年寄りが増え、街には整形外科や歯科医が目立つ。
さて、日頃敬愛している著者の新・旧著を読み返してみるのは有益である。
『免疫革命』は、国際的免疫学者・安保徹の名著。自律神経とガンなどの現代病との関係をつきとめ、免疫のメカニズムを解明し、ガンにならない法、ガンになったときどうしたらいいかを懇切丁寧に提言している。
『自然治癒力の驚異』の帯津良一医師も食道ガンの外科医だったが、西洋医療の限界を知り、民間療法や気功・呼吸法を取り入れた東西統合医療を目ざしている。
『快癒力(1)(2)』『幸福力』を著わした篠原佳年医師も、最近ではモーツアルトなどの高周波音楽療法を推進、現代の難病(膠原病・リウマチ)に四つに取り組んでいる。

ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスのアレキシス・カレルの『Man the Unknown』(邦題「人間-この未知なるもの」桜沢一如訳/角川文庫・昭和27年刊)をボクは1961年以来いく度も読み返してきた。“人間の研究は人間である”とパスカルは言った。モンテーニュ、ラ・ロシュフコー、ニーチェ、ジイド、三木清、ボクはいわゆるモラリスト文学が好き。あとはジョークの本。

日本人は駄洒落・地口文化はあっても「ユーモア感覚」が不足というが、果たしてどうか?
毒舌というブラックユーモリストなら、いる。人間嫌い? いや、人たらしはいるもので、もう、愛して愛して骨まで愛しちゃう男になりそうなボクですが、女性恐怖症は今もありますが……。ま、他(はた)から見れば変人・奇人に見えても本人はマトモと思っているから世話ない。

上記の医師たちはいずれも名・高僧のようで、カラダを極めるとココロに達し、肉体の健康から、スピリチュアル=霊性の目ざめ、へ辿りついているようでいい。
アーメン、死んでもいのちのあるように。

人間-この未知なるもの-

アレキシス・カレル「人間-この未知なるもの-」(1980年,三笠書房版,渡部昇一訳のもの。現在は文庫で同社から出ている。)